続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

思いがけない結末。

2012-05-13 06:41:02 | 日常
 何年か前、俳句の会に入会したことがあった。年を経てもできる趣味・・・単にそのくらいの軽い気持ち。

 ところが、数ヶ月のうちに、何となく辛くなってしまった。先生は優しいし、サークルのメンバーとも親しくなれたし、俳句のほうも下手ながら作るのは楽しみだった。

 理由はただ一つ、「せつこさん」と呼ばれることが苦痛だと気付いたのである。

 わたしの世代なら節子という名前がごく一般的で、クラスには必ず同じ名前の人がいたくらいである。小学校のときにも「せつこさん」と呼ばれる成績優秀、容姿端麗に加えて、父親は校長先生という家庭環境、しかも心優しくいつも静かに微笑んでいる鑑のような「せつこさん」だった。
 そのクラスに後から転校してきたわたしは、同じ「せつこさん」でも決して名前で呼ばれることはなかった。「せつこさん」は彼女のものであり、「せつこさん」は他にはいない。
 自分もセツコながら、彼女に「せつこさん」と呼びかけたりしていた。ただ全ての点に於いて同列で無いという僻みが潜在していたのも事実である。

 そんな素晴らしい「せつこさん」はその後も順風満帆、いい人生を突き進んでいるに違いないと思う。けれど、わたしは・・・とここで再び劣等感に駆られてしまう。どこまで行っても、「せつこさん」にかなわないという気持ちが、すでに半世紀を経た今でも残っていたことに気付いたとき、わたしはこの名前で呼び合うサークルに耐えがたくなってしまったのである。


 そんなわけで、俳句の会を脱退してしまったわたし・・・自分でも思いがけない結末だった。

『風の又三郎』318。

2012-05-13 06:25:45 | 宮沢賢治
そこはこの前上の野原へ行ったところよりもも少し下流で右の方からも一つの谷川がはひって来て少し広い河原になりそのすぐ下流は巨きなさいかちの樹の生えた崖になってゐるのでした。

☆全て照(光)也。
 言(言葉)で考えた照(光)は、仮に縷(細く連なる)幽(死者の世界)であり、豊かで逸(続から抜け出している)国である。千(たくさん)の鬼(亡霊)の照(光)、講(話)の光は幻である。
 拠/よりどころ)は、寿(命)の証としての我意である。

『城』820。

2012-05-13 06:17:18 | カフカ覚書
「それは、別個の問題ですな」と、村長は言った。「それをどうこう決定する権限は、わたしにはありません。しかし、ああいう誤解がどうして起こりえたかということなら、もちろん、説明してあげることができます。

 別の/ein ander→Ahn enden/先祖、死。

☆「先祖の死が論争点である」と、伝説の(死への)入門。
「判決が下ることはありません。しかし、ああいう誤解がどうして起こりえたかということなら、もちろん、説明できます。