続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

歩かなくちゃ。

2016-11-06 07:01:51 | 日常

 昨夕チャイムが鳴ったので、出てみると隣りのAさん。
「明日の歩こう会に行きませんか。以前行ったことのあるミカン狩りに」という。

 そういえば町内の回覧板に・・・予定はこれと言ってないけど、やりたいことがないわけでもない。
「う~ん」迷いながらも、孫の祖父母交流会のために今月は例の歩こう会を欠席したことを思い出した。膝に不具合のあるわたし、(あんまり動きたくない、でも動かないと・・・)

 何をおいても《歩くこと》が大事、最優先である。
 
「行くわ!誘ってくれてありがとう」
 というわけで今日はこれからミカン狩り、《歩かなくちゃ、歩かなくちゃね》自身に言い聞かせている。


デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』

2016-11-06 06:25:27 | 美術ノート

 『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』

 フレッシュ・ウィドウに見る両性を考えると、彼女の独身者たちは、デュシャン自身ということになる。
 デュシャンによって裸にされた花嫁とはいったい何だろう。
 デュシャンの中の彼女=独身者=花嫁であり、一人の分解としての図解が(大ガラス)に見る『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁』なのではないか。
 つまり作品は『わたくし(デュシャン)自身の裸の提示』であり、告白である。

 視線は二枚のガラスの中央にあり、男たちを俯瞰し、女(彼女)を浮遊させている。
 個の中の属性、自身のなかの性を裸に曝し追及している。ガラスのひび割れは自身に対する暴力的な揺さぶりであり、閉じ込められた性に対する解放への叫びに見える。

 男が女の性を希求しても、絶対に超えられない壁が「処女」であり「花嫁」という儀式である。
 『さえも』は、嘆きである。『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁』…『さえも』は、一種の絶望である。

 意味不明に見えた作品も、この観点から秘密裏に見えてくる風景がある。


(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)


『銀河鉄道の夜』288。

2016-11-06 06:10:05 | 宮沢賢治

 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりでどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。

 見ましたはケンと読んで、兼。
 白くはハクと読んで、吐く。
 云ったはウンと読んで、運。
 思はれはシと読んで、詞。


☆兼ねて吐く運(めぐりあわせ)の詞(ことば)がある。


『城』2473。

2016-11-06 05:55:09 | カフカ覚書

父は、うなずいて、辞令をとりにいきましたが、手がふるえて掛け釘からはずすことができません。わたしは椅子のうえにのぼって、手つだってやりました。


☆父(先祖)はうなずいて、それを取りに行きましたが、手が震えて留め金から外すことができません。わたしは椅子に上り彼を手伝いました。