『吊るし雛』の講座、4回目の『米俵とネズミ』何とか出来上がりました。
そして今週金曜日には最後となる5回目の講座がありますが、その時につくる予定の『猿ぼぼ』を予習してみました。
綿の入れ具合だの縫い方など問題点はいろいろ・・・。
実際作らないとわからないことばかり、最終回にもたもたしないよう予習したわたし、勉強もこのくらい頑張ればもう少し違った人生になったかもしれないと思うことしきり。
予習・復習の大切さを御年69歳で覚りました。(遅すぎるだろう)
『花嫁』
この作品の中には、通常わたしたちが思い描く(花嫁)のイメージは皆無である。娘が女になる、女が男と性的関係を持つことの暗示さえ垣間見ることができない。
確かに何かの機関があたかも連係し何かの作用を果たしているかに見えるが、その各部を追っても結実が見えない。何のためのどういう効能をもたらすのかが霧散している。
連続に見えて不連続な危うく無為な《意味を見いだせない》構成をあえて意図し、完結を外している。
『花嫁』と題していることの関連性はどこにあるのだろう。祝いの明るい華やぎもなく茶系の地味で暗いトーンであリ、一抹の寂しさを抱く花嫁のブルーの彩色もない。すべてが花嫁の持つイメージを逸脱している。
むしろ《花嫁のイメージの徹底的な否定》を感じ、絶対に花嫁をイメージさせない構成である。花嫁のイメージの排除=花嫁という不条理。
花嫁などというものは存在しないのだという皮肉、たしかに花嫁という実態は存在しない。花嫁は結婚する女の人への美称にすぎず、《今》がすでに過去になる以上、《今という時が存在しない》というのに似ている。
『花嫁』という『幻想の時』、有るようでいて無い、その無空の告発である。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかゝりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもゐないやうでした。
☆謀(はかりごと)を転(ひっくりかえすと)専ら二つを吐いていると告ぐ。
難しい字の評(品定め)が千(たくさん)ある。
常に趣(ねらい)は幽(死者の世界)、且つ座(星の集まり)の釈(意味を解き明かす)。
章(文章)は、照(あまねく光が当たる=平等)に到る編(文章)である。
「いいえ」と、オルガは言った。「だれをも責めることはでkませんわ。だれだって、ああいうふうにふるまうしかなかったのですもの。こうしたすべてのことも、すでにお城からの影響だったのです」
☆「いいえ」と、オルガ(機関/仲介)は言った。「誰も非難できません。誰もどうしようもなかったのです。死はすでに閉ざされ、融解していたのですから」