JR衣笠駅集合、もうこの時点で(今日はここで・・・)と超弱気でいたのに、冗談を言い合うメンバーの明るさにつられて歩き出してしまった。
(怖いよ~)といじけていたわたしも脳に錯覚という現象が起き、だんだん歩けるような気分に・・・。
大楠山に到着した時は秘かに歓喜。
でもすれ違った高齢の男性曰く「毎日の散歩コースです」
そしてもう一人の70代に見える女の人「庭ですよ~」と、にっこり。
情けないわたし、気力を振り絞って一路国際村へ。
途中、友人に支障が出たので、付き添いの振りをして都合よくリタイヤ。それでも《22000歩》
西海岸へは出られなかったけれど、十分、秋を満喫したことでした。
リーダーはじめメンバーの皆様に感謝、ありがとうございました。
その影は黒くしづかに底の光の網の上をすべりました。
影はエイと読んで、永。
黒くはコクと読んで、告。
底はテイと読んで、態。
光はコウと読んで、講。
網はモウと読んで、望。
上はショウと読んで、照。
☆永(とこしえ)を告げる。
態(ありさま)の講(話)は、望みである照(あまねく光が当たる=平等)である。
『手の力』
わたし達には経験値で図られた概念がある。物質にはおよそ定められた使用目的による大きさの限度があり、それ以上でもそれ以下でもない範囲がある。
だから城やコップやバラがそれぞれ異なる大きさで石壁の上に並列されているのを見るとき、少なからず混迷に陥ってしまう。
何が基準になってるのか、その判定を下すことは難しい。なぜなら個々の物はそれ自体特有の形態を崩していないからである。
唯一絶対の基準は《水平線》であるが、その距離が個々の物の大きさを凌駕するので、一つ一つの物に対しては自然であるのに対し、個々の物を至近に並置した場合奇怪な現象を引き起し、概念を崩壊させてしまうのである。
『手の力』、表現の自由は、世界観(概念)を覆す。
手をつかさどるのは精神(脳)であり、物質界は精神界によって錯誤を変換可能とする。手(表現方法)は、世界を変える可能性を秘めている。まだまだ追及を究めることができるという抱負、自負がこの作品には感じられ、マグリットの毅然とした姿勢が垣間見えてくる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
今だ。赤シャツの農夫はだまって針をにらみつけました。
今はコンと読んで、魂。
赤シャツはシャクと読んで、釈。
農夫はノウ・フと読んで、納、二。
針はシンと読んで、審。
☆魂を釈(意味を明らかにする)
納めた二つを審(つまびらかにする/正しいかどうかを明らかにする)
あのズベ公たちのところでどういうことになろうが、あの子たちとこの人の問題で、わたしの知ったことではないわ。わたしの仕事は、イェレミーアス、あなたを看病してあげることよー
☆あの人たちが、来世でどこに向かおうと、彼らとこの問題(事件)で、わたしたちは感知しない。わたしはこの問題を健全にすることよ、