『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこはい所へ行つた』
☆普く語(言葉)の考えである。
御(あやつる)語(言葉)を書きつける講(話)である。
記憶・・・かつての出来事を再び思い起こす情景だろうか。
若い女の石膏像(頭部)は精神を持たない物であり、記憶は作動しない。あえて石膏像にしたのは、《死》を暗示するためだと思われる。
空と海との境界も定かでない背景の暗澹とした空気は、彼女(頭部)の胸中(記憶の中)であり、白い顔面のこめかみから流れる鮮血は辛苦・苦渋・悔恨・無念などの感情ではないか。(少なくとも明るく楽しい記憶ではない)
板状の平面に置かれt石膏像の頭部、右には馬の鈴(言葉)、左には薔薇(愛情・情熱)が控えている。発することの出来ない言葉は純白(無根・無実)であり、届くことのない薔薇(愛慕)は諦念である。
深く傷ついた無念の想いは、神格化された石膏像のこめかみに赤い刻印を押している。消えることのない痛恨を、作者(マグリット)は悼み悲しんでいる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
若い農夫は、も一度自分の腕時計に柱時計の針を合わせて、安心したやうに蓋をしめ、ぴょんと土間にはね降りました。
☆二役に納めた譜(物事を系統的に書き記したもの)が逸(隠れている)図りごとである。
弐(二つ)の文は一つであるが、二つの計(図りごと)を注(書き記している)。
二つの計(図りごと)は新しい。
合わせた案(考え)は、新しい我意の図りごとであり、換(入れ替える)講(話)である。
おれも、ほんとうにひどく疲れたところを見せびらかし、この廊下にでもぶっ倒れ(それだけでも、いい気持にちがいない)、ちょっぴり眠ったりする。そうすれば、すこしぐらい看病してもらえるかもしれんからな。
☆実際、疲れてこの経過でくずおれてしまうのを見ると、たしかに親切にすべきで、先祖も少しは休めば、少しぐらいは世話をしてもらえたかもしれない。