十六人の百姓どもが、顔をまるつきりまつ赤にして足で踏んで器械をまはし、小山のゆに積まれた稲を片つぱしから扱いて行く。
☆等(平等)を録(書き記す)図りごとである。
飛躍した章(文章)は信仰の釈(意味を解き明かす)則(道理)であり、禱(いのり)の記である。
皆(すべて)の章に算(見当をつけ)析(分けることで事柄を明らかにする)
等(平等)を遍(もれなく)扱う講(話)である。
『会話術』
会話とは人と話を交わすことであるが、ここに人は描かれておらず、採石の石を組み合わせた「REVE/夢」という意味を持つ文字が聳え立っているだけである。
会話の術・・・自分と伝える相手がいなくては成り立たない。
身体表現もあるが、ツールとしては「共通言語」が必携である。しかし、この巨大な石を文字に置換する会話などあり得ない。会話はツーカーの呼吸で運ぶもので、石を運ぶような長時間の作業は必要としない。
にもかかわらず、ここに石を置いた理由は何だろう。
石は語らない。石の特性を持って「わたしは岩である」と宣べた神や石を刻むアーティストもいるが、石自体に表現力はない。
しかも、意味が「夢」であることは、自分自身のみの精神現象であり相手との交信はない。民衆が抱く将来の希望という意味もあるが、一方向に向かうもので会話という交信はない。
会話術というタイトルの前に立ちはだかる壁のような『問い』である。
真の会話の不確実性、困難・・・「わたしの問いに答えられるか?」会話の不毛、マグリットの叫びのようでもあり、震撼とした空気に鑑賞者であるわたしは沈黙せざるを得ないのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
白い柔らかな円石もころがつて来小さな錐のかたちの水晶の粒や、金雲母のかけらもながれて来てとまりました。
☆魄(たましい)の中の掩(隠れた)釈(意味を解き明かす)記である。
照(あまねく光が当たる=平等)を推しはかり啓(人の目を開き理解させること)を遂(とげる)。
照(あまねく光が当たる=平等)を流(広め)、渾(いろいろなもの/すべて)を運(めぐらせる)模(手探り)の記である。
すると、すくなくともエルランガーのまえへ出ていけるくらいの元気がわいてきたような感じがした。彼は、エルランガーの部屋のドアをさがしたが、従僕もゲルステッカーも姿が見えなかったし、どのドアもおなじなので、見つけだせなかった。
☆エルランガーの前に進み出るほどの力を予感した。彼はエルランガーの部屋(課題)のドア(入り口)を探したが、従者(死者)もゲルステッカーも見えなかったしどの入口も同じなので見つけることができなかった。