「僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりも無い身だから、知る顔もなければ見覚えの禿頭もない。
☆目(ねらい)は繕(つくろうこと)を、慮(あれこれ思いめぐらせる)。
規約の度(ものさし)は、字を掩(隠す)謀(はかりごと)である。
新しい質(内容)の眼(要)である謀(はかりごと)が現れる。
較べて読んで、問うことである。
※見覚えの禿頭というのは、太陽。ここ冥府には現世でよく見た太陽がないと言っている。
Kがひさしぶりでぐっすりと眠ったあと、さらにおいしいコーヒーまで飲ませてもらえる満足感にひたりながらこっそり髪の編み目に手をのばして、それをほどこうとすると、ペーピは、疲れたように「さわらないで」と言って、Kとならんで樽のひとつに腰をかけた。
☆Kもまた、ゆっくり十分に眠ったのち、先祖の旅行鞄を受け、ひそかに罠に手を伸ばし、その試みを公開し、ペーピに「どうしても中止せよ」といい、先祖の最下部に並んで腰をかけた。
『パリの空気 50㏄』
レディ・メイド:ガラス製アンプル
ガラス製、透明な容器にパリの空気が入っているという、しかも50㏄。
空気は見えないから、それが(パリの空気)だと言われれば、パリの空気ではないと否定できる証拠がない。高さ13.5㎝.円周20.5㎝の容器に50㏄の空気が入っているということは混入しているということであるが、見えないものは分けることが不可能である。
見えないものに対する判別は困難である。たとえばこの中に(神)が潜んでいると言われれば、疑惑を抱いても全面的に否定はできない。日本的な感覚すれば神は《万物に宿る》とさえいわれ、見えないものに対する畏敬の念は消し難い。
物理的な測定は見えること、形あるものに限られる。
空気は確かに存在し、ないところでは生きられないが、見えず、形を持たないという条件下では測定は不可能である。「パリの空気」などと命名しても、その虚実に答えは見いだせない。「パリの空気」のような感覚を脳裏に刻む空想はあるかもしれないが、笑止、誤作動に過ぎない。
しかし、人は過去のデータの集積により思い描くこと(空想)を可能とする。言葉はイメージを想起させ、あたかも有るような錯覚を確信させる力がある。
最初に言葉ありき・・・『言葉と物』との関係性を衝いている。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
腥い臭いが人々の立騒ぐ袖や裾に煽られて鼻を打つ。
☆逝(人が死に)終わると尽(すべてが無くなる)。
腎(要)の律は双(二つ)である。
周(あまねく)拠(よりどころ)は換(入れ替えること)である。
備(あらかじめ用意してあるもの)に兌(とりかえる)。
額やこめかみのあたりの毛には、鏝をあててカールがしてあり、首には小さな鎖をつけ、ブラウスの胸の深い切れこみのところまで垂れさがっていた。
☆大群に罠をこしらえ束縛をしいた。先祖のたくさんの前例にならい、大群は眠っていた。先祖の連鎖は業苦に焼かれ低いのぞき窓には灯りが吊り下げられていた。
旅行者、換言すると所在不明者であり、存在しているが解放され自由な異邦人である。現場証明が困難であり、確かに居る(存在)と思えば、すでに他所へ移動しているかもしれない不明を抱えている。
その旅行者専用の「折り畳み品」、折り畳めるタイプライターはないが、カバーをかけた状態のままのカバーの内部は見えず、あたかもタイプライターが内在しているかに見える。本来カバーはそういうものだからである。
しかし(折り畳み品)と命名したことであるべき本体は霧消してしまう。この本体の欠損した折り畳み品に存在価値はあるだろうか。
鑑賞者は、カバーの中には当然本体(タイプライター)はあるはずだという思い込み、確信を消去できず、常にカバーは本体と一体であるとどこかで信じている。この消し難い思い込みの矛盾、脳裏は過去の情報をかかえ整理し正解を導き出すための作用を怠らないが、物理的な条件を検証しない限り判定を下せない。
曖昧模糊・混沌は、空無と領域を重ねる。所在を明らかにしない旅行者は折り畳み品(タイプライターのカバー)を携帯して不明の領域に解放されている。
『旅行者用折り畳み品』は、デュシャンの化身である。存在しているが不在であり、不在であるが存在しているしかないデュシャン自身である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
鯛や比良目や海鰻やタコが、其処らに投げ出してある。
☆諜(図りごと)は秘(人に隠して見せない)。
霊(死者の魂))は、黙っている。
悔(くやむこと)が満(いっぱい)の傷(悲しみ)がある。
語(言葉)の記を諸(もろもろ)問い推しはかる。
彼女の悲しげな様子は、彼女がこのまえのときよりもずっとおめかしをすることを妨げていなかった。髪の毛にたくさんの編み目をこしらえ、リボンをとりどりに編みこんであった。
☆悲しみはもちろん妨げにはならなかったが、もしかしたら今でも以前の傷痕を身につけているのかもしれなかった。大勢の人たちを取り込み罠を織り込んでいた。
旅行者、荷は少しでも軽量を心掛けることは肝心である。そのための折り畳み品であるというUnderwoodという名の入ったカバー。Underwoodといえばタイプライターを想起させるものに違いないが、果たして中にタイプライターは入っているのだろうか。タイプライターは折り畳めない、と思う。
『タイプライター』ではなく『旅行者用折り畳み品』である。
記録するに要るタイプライターが必須である旅行者もいるには違いないが、たとえ小型でも…疑問が残る。しかし、「折り畳み品」であると明記している。折り畳めないものを折り畳み品と言っているが、確かにカバーだけなら折り畳み品であることに納得がいく。必要不可欠な物だけを持つであろう旅行者の「折り畳み品」は正しく折り畳み可能のカバーだけだとしたら、たとえ折り畳めても無用の長物である。
カバーの中は見えない。見えない不確かな対象(目的)を旅のお供にする。「ある」が「なく」、「ない」が「ある」ものである。
この空虚に隠れた真理、それを求める旅行に携帯する『旅行者用折り畳み品』である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.com
売っている品は言わずもがなで、喰っている人は大概船頭船方の類にきまっている。
☆媒(仲立ち)は頻(しばしば)現れる。
嘱(委ねる)腎(要)は諦(真理)の我意である。
千(たくさん)問う。
千(たくさん)の法(神仏の教え)が塁(より所)である。