続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅲ-1-1』

2021-06-16 06:34:36 | 美術ノート

   Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬

 自分は即ちわたしであるが、わたしのほうへ向かう犬は他者(世界)だろうか。
 自分という解釈も成り立つ。主観と客観、自分を分離し客観的に自分の領域を俯瞰する構図かもしれない。
 自分と犬の間の半円形の溝、水は激しく渦を巻いて動いている。犬にとっての障害、抵抗は自分との距離を遠くし、一致の結果を招かないようにも見える。

 犬の不可思議、言葉の欠如、感情の同意性。人が犬に抱く感情は願望が多くを占める。支配であり従属を乞う立場である。しかし、犬は簡単には靡かないかもしれず、関係は必ずしも主従ではない。

 犬は自分の方に向かっていると信じている。この信頼性はまさしく(溝)である。泳いでいる犬は陸に上がらなければ死ぬしかない定めであるが、自分は陸となり犬を救助できるか。否、犬は自分であれば救われるのは自分である。
 犬が困難な状況であるという説明はないが、水中という相に長く留まることはできない。ここに二者の関係性が問われるのである。
 間にある空気の振幅を凝視するものである。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『飯島晴子』(私的解釈)走る老人。

2021-06-15 07:24:56 | 飯島晴子

   走る老人冬の田螺をどこかで喰ひ

 走る老人はソウ・ロウ・ジンと読んで、荘、楼、腎。
 冬の田螺はトウ・デン・ラと読んで、塔、殿、螺。
 どこかで喰ひ(何処喰)はカ・ショ・サンと読んで、華、所、燦。
☆荘(おごそかな)楼(たかどの)は腎(かなめ)である。
 塔は殿(大きく立派な建物)であり、螺(渦巻き状になっていて)華(はなやかな)所であり燦(きらめいている)。

 走る老人はソウ・ロウ・ニンと読んで、葬、労、任。
 冬の田螺はトウ・デン・ラと読んで、悼、伝、裸。
 どこかで喰ひ(何処喰)はカ・ショ・サンと読んで、禍、処、惨。
☆葬(葬式)の労(ほねおり)は任(まかせられた仕事)である。
 悼(死の悲しみ)が伝わる裸(むきだし)の禍(わざわい)の処(場所)は惨(いたましい)。

 走る老人はソウ・ロウ・ジンと読んで、争、陋、尽。
 冬の田螺はトウ・デン・ラと読んで、闘、伝、等。
 どこかで喰ひ(何処喰)はカ・ショ・ソンと読んで、禍、諸、損。
☆争いは陋(みにくい)尽(すべてを失くす)闘いである。
 伝(流布)等の禍(わざわい)で諸(もろもろ)が損(そこなわれる)。


鈴木しづ子(私的解釈)紫雲英摘みたり。

2021-06-15 07:10:29 | 鈴木しづ子

   紫雲英摘みたりあなたの胸に投げようか

 紫雲英、蓮華を摘んで、あなたの胸に投げようか。レンゲの花言葉《苦痛を和らげる》、あなたの苦痛をこの花を投げて和らげることができれば、こんな嬉しいことはないけれど。
 わたしとあなたに間にある戦争という大きな障壁…あなたの未来。明日はどうなるかわからない朝鮮出兵。幼い子供のころに戻って、このレンゲの花をあなたの胸に投げてみたい、願いが本当に叶うならば。レンゲの素朴な平穏、幸福、このすべてをあなたにあげる、不安に打ち克つように。


若林奮『Ⅱ-5-1』

2021-06-15 06:28:15 | 美術ノート

   Ⅱ-5-1 緑の森の一角獣座模型

 一角獣座、オリオン座の葉時にあるらしいが、確認するのが難しい星座である。この一角獣(ユニコーン)は幸福をもたらし、病気をも治してしまうと信じられているが、心が清らかで優しい乙女にしか見えないという伝説の基に名付けられた星座である。要するに緑の森の中にある幸福な領域(エリア)の模型ということである。

 周囲を塀で囲み、他からは見えず侵入ができない空間である。隔絶され護られたエリアの出入り口は狭く、自由に入れるが本当に入ることは困難だという造りになっている。
 上るためであり下りるためでもある階段の脇には、滑り落ちていく水の流れがある。
 緑の森の一角獣座、これは楽園なのだろうか。それともその資格を問う検問なのだろうか。平和と自由への憧憬、願望は閉じているのだろうか、わずかな隙間は厳しいように見える。

 一角獣座、天空にあると信じられている景色が、地上、もしくは地下深く遮蔽された秘密の空間に存在しているという伝説の模型を作ろうとしているのかもしれない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より

 神奈川県立近代美術館


『飯島晴子』(私的解釈)とつぜんの。

2021-06-14 07:33:56 | 飯島晴子

   とつぜんのくろもじの木や秋の琵琶鳴

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、訥、漸。
 くろもじ(黒文字)はコク・モン・ジと読んで、克、悶、治。
 木や秋のはボク・シュウと読んで、僕、衆。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、秘、破、明。
☆訥(口下手)を漸(ようやく)克(力を尽くしてかち)悶(思い悩んで)治した僕(わたくし)、衆(みんな)に秘(人に見せないように隠すこと)を破り、明るくなった。

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、咄、全。
 くろもじ(黒文字)はコク・ブン・ジと読んで、酷、紊、事。
 木や秋のはボク・シュウと読んで、目、衆。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、卑、波、冥。
☆咄(舌打ち)全(すべて)は酷(むごく)紊(乱れた)事である。
 目(目配せする)衆(人たち)を卑(軽蔑する)。
 波(一団)は冥(愚か)である。

 とつぜん(突然)はトツ・ゼンと読んで、訥、繕。
 くろもじ(黒文字)はコク・モン・ジと読んで、告、悶、自。
 木や秋のはモク・シュウと読んで、黙、愁。
 琵琶鳴はヒ・ハ・メイと読んで、悲、端、瞑。
☆訥(口下手/どもり)を繕(治す)と、告げる。
 悶(身もだえし苦しむ)自(わたくし)は黙って愁い悲しみ、端(はし)で瞑(目を閉じている)。


鈴木しづ子(私的解釈)ひと在らぬ。

2021-06-14 07:15:22 | 鈴木しづ子

   ひと在らぬ踏切わたる美濃の秋

 ひと在らぬ…誰もいない、人の気配のない踏切。
 向こうから列車の汽笛が、やがて走りくる列車に胸が高鳴る。この踏切に立ちさえすれば、留まりさえすればあの世は近い。
 幾多の命が消えた信長の美濃攻め、歴史の地に立っている。わたし一人が消えたところで何のこともないという感傷。
 美濃の秋の寂寥、わたし一人が踏切という凶器の前で立ちすくんでいる。


若林奮『Ⅱ-4-p』

2021-06-14 06:53:12 | 美術ノート

   Ⅱ-4-p 《地下のデイジー》

 デイジーとは、花のデイジーだろうか。確かに正四角形の枠の中に放射状に花びらの形が見える。
 地下のデイジー、地下で花が咲くだろうか。絶対にあり得ないことではないか。

 あり得ないことを有るという。無を有であるという。見えないものを、あたかも見えるように確信する。この落差・・・地下への夢想。

《地下のデイジー》とタイトルすることで、地下にはデイジーが有るのだと信じ込ませる。疑う術もなく、信じる確証もない。デイジーは強い繁殖力をもつ植物だけれど遮光の地下で花を開くとは思えない。デイジーの種は地下で死滅せず活きている。

 活性、闇の中での猛威、エネルギーは驚嘆するものがあるが、誇示することなく沈黙のうちに主張している。少しの光があれば必ずや地上に出て花を咲かせる。
 花びらの形に開けられた穴、そこにデイジーは芽を出すだろうか。とてつもないエネルギーを感じさせるデイジーは、地下と地上を行き来する。地下のデイジーの秘めたエネルギー、主張は生きることの声なき声かもしれない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館