
堀江珠樹さん大いに語る
江嵜企画代表・Ken
堀江珠樹さんから2月8日、10時から芦屋ルナホール隣の市民センターで「芦屋のお嬢様について」のタイトルで話をする。2月15日の「芦屋のマダムについて」の2回シリ―ズで、時間があればいかがですかと声をかけていただき楽しみにして出かけた。
堀江珠樹さんは現在、大阪府立大学、地球連携研究機構教授である。堀江珠樹さんとは元職場の化繊協会の機関誌「化繊月報」に連載をお願いした時ご縁をいただいた。それ以来、彼女が講演される時には、時にお声をかけていただき10数年経つ。
堀江珠樹さんは1954年、西宮市夙川の生まれである。ピンク系統のドレスは彼女のトレ―ドマークである。母親は子供の時ブル―の洋服を好んで着せた。赤やピンクは母親が嫌いだった。いま、娘はその反動で思い切りピンクで通していると話した。年齢にとても見えない。実に若々しい。彼女の魅力はユニークの一言に尽きる。さらに言えば、話が面白い。だから飽きない。いつものことだが、11時半までの持ち時間を一気に駆け抜け、ピタリ終えた。見事というほかない。講師に引っ張りだこされるゆえんである。
この日のテーマは「芦屋のお嬢様」だった。芦屋を舞台に展開した谷崎の「細雪」を落語でいう「枕」に使った。母親が「細雪」の時代と10年遅れで重なる。「華麗なる一族」に登場する人物で話を締めた。堀江珠喜さんご自身は、「華麗なる一族」の登場人物の末娘より10ほど若い。似たような時代環境で育った。
余談ながらと前置きして、珠樹さんのお祖父さんは松下幸之助さんの友達だった。祖母に幸之助さんの奥様から時に電話がかかってくる。祖母は機点を聞かして返事していたと母親から聞かされた。祖父の実家の並びに祖父の土地に建てられた「松寿園」という当時としてはモダンなアパートがあった。当時の写真が回覧された。「細雪」に「松涛園」の名前で出てくる。おそらく「松寿園」アパートがモデルであったと思われる。
珠樹さんの母親が姉上と二人でモデルとなり、「姉妹」と題して、1937年に描かれた第11回関西洋画展に出展された絵が残っている。1938年に中之島の橋をバックに洋装の母親と着物姿の友達の写真や1938年当時の甲子園ホテル、現武庫川女子大キャンパスでくつろぐ娘時代の母親の写真などが、この日、会場で披露された。「細雪」には昭和13年(1938)芦屋川、住吉川が氾濫する、阪神大水害の様子が出てくる。
母上は、芦屋のお嬢様そのものである。母親はお手伝いさんにこいさんと呼ばせていた。まさに「細雪」の世界である。母親は「細雪」に出てくる妙子より10歳ほど若いが当時の芦屋、夙川界隈をほぼ同時代に育った。
この日のテ―マは、芦屋のファッショナブルライフスタイルである。昭和8年(1933)に月刊誌「ファッション」が芦屋で創刊されている。母親は明治生まれである。84歳でなくなった。娘時代は当然和装で育った。だから和装の事は分かる。しかし洋裁は無知である。「和」から「洋」への橋渡しとして雑誌「ファッション」が当時活躍した。
良き時代は長くは続かなかった。日本は昭和11年(1936)に日中戦争、昭和16年(1941)に太平洋戦争に突入する。そして敗戦、戦後40年数年成長を謳歌して1989年バブルは頂点を迎える。その過程が「華麗なる一族」の舞台となる。バブルが崩壊して、その後失われた20年が経過した。そして安倍政権が2012年11月に誕生した。
「細雪」から25年で「華麗なる一族」。バブルが崩壊して25年目の平成25年で、安倍さん次第ではあるが、再びバブル時代を迎えているかもしれないと、大胆予測して、堀江珠樹さんは話を終えた。(了)