画・江嵜 健一郎
第128回酒蔵文化道場が3月17日(木)16時から作家の玉岡かおる先生を語り部に迎え、神戸酒心館ホールで開かれ楽しみにして出かけた。会場の様子をいつものようにスケッチした。
この日の題目は「松右衛門帆と樽廻船」~酒を運んで海の大動脈を走る~。
講演のあと、最新作「帆神」~北前船を馳せた男,工落松右衛門のサイン会があった。
サインをしていただくわずかの時間だったが「楽しいお話でした。特に神戸港の歴史含め神戸にまつわるお話を聞けた」と玉岡先生に直々お礼を伝えることが出来ラッキーだった。
神戸酒心館、安福会長から「多方面にご活躍で、多くの受賞作品を出しておられます。お生まれは兵庫県三木市、神戸女学院大学ご卒業です。」と冒頭挨拶があった。
「江戸の町は百万の人口を抱えた大消費地だった。生産地でなかった江戸の人々の衣食住の物資は大坂から運ばれた。「早く・大量に・安全に」が輸送の使命だった。」「そんな中、力量を発揮したのが松右衛門である。彼は千石船の弱点だった帆の改良に自ら取り組み、松右衛門帆を開発した。海運界に一代革命を起こした人物だった。「帆神」はそんな男の物語です」と玉岡先生は話し始めた。
話題は多岐にわたった。紙数の関係でここでは神戸の話を中心にまとめる。神戸港の開港は明治元年(1868)である。開港間のない神戸港を舞台に第一次世界大戦をまたぎ活躍した会社が鈴木商店である。鈴木商店の女主人の鈴木よねと共に会社の発展に尽力した大番頭の金子直吉の物語「お家さん」を書いた。鈴木商店は砂糖,樟脳からはじめ鉄、繊維など多くの企業を立ち上げた。しかし、昭和2年(1927)の金融恐慌で倒産した。鉄の神戸製鋼所、繊維の帝人は鈴木商店から生まれた。
第一次世界大戦で船造りで大成功した会社の一つが川崎造船である。当時、欧州は精巧な大型の船が大量に作れなかった。次々欧州から日本に注文が入った。川崎造船の松方幸次郎は稼いだ資金で名画含む美術品を買った。松方コレクションの母体である。
日本で最初のストライキは神戸である。貧しい人々のために活躍した賀川豊彦という男が居なければ貧富の差はひどいものになっていただろう。
ここで玉岡先生は一転して上町大地と生駒山系に囲まれ真ん中に河内湾、海(大阪湾)に沿って西へ続く山(六甲山)を描いた地図を映した。
六甲山は海と山の間がほとんどない。しかも山が急峻である。大雨になると鉄砲水となって海に流れ込んだ。洪水が起これば、川は流れを右左と頻繁に変えた。人が安心して住める土地でなかった。今の東灘、灘区は莵原と呼ぶ。莵原はウサギが住んでいる原っぱの意味だ。
太古から時代が下がり万葉時代。浪速の泊りから船で出た人の次の泊りは駿馬(みるめ)だった。いま駿馬神社のあるところだ。時代の経過とともにその駿馬も土砂で埋まった。平清盛は兵庫の津である大輪田の泊を作った。
玉岡先生は大阪市の市章「澪標(みおつくし)」を映した。澪標とは船が通れる深い場所と浅くて船が通れない場所の境界線に建てられた道標の事である。船が通れないと港として使えない。それを知らせる道しるべが澪標であると玉岡先生は解説した。
帰宅後「帆神}を読んだ。結びには以下のように書かれていた。
「松右衛門帆をかけた日本の商船は明治中期までほぼ100年間、北前航路ほかで隆盛を極めるが、押し寄せる西洋文明の中、化石燃料による蒸気船などにとって代わられ衰退する。松右衛門帆も、和船の終えんとともにその役目を終える。」(了)