先日、松田聖子のコンサートの模様を深夜のテレビでやっていた(TBS系列,静岡では4月25日)。
もう40過ぎだと思うが、フリフリの服を着て歌えるとこなんて、やはり聖子ちゃんはスゴい。いくつになっても女の子はかわいらしくあっていい、と世の女性陣に思わせるところ、彼女の功績と言っていいだろう。
彼女がいなかったら、『青い珊瑚礁』も『白いパラソル』も『赤いスイートピー』も『ピンクのモーツァルト』も、そして『小麦色のマーメイド』も『瑠璃色も地球』も生まれなかっただろう。たとえ生まれていたとしても、同じ歌詞、同じメロディにはならなかったに違いない。歌はやはり、歌い手の雰囲気・音域・心意気に左右されるものだから。
そしてまた思う。『瞳はダイアモンド』や『SWEET MEMORIES』を口ずさみながら、僕らはサントリー〈樹氷〉をあんなには飲まなかったろう、と。
彼女がいなかったら、1980年代の歌謡シーンはまた違ったものになっていただろう。あるいは、別の女の子が同じような地位に付き、国民的アイドルになっていたのかもしれないが、それは聖子ちゃんの作り出した世界とはだいぶ異なったものになっていただろう。
さらに、どういう女の子かは想像できないが、聖子ちゃん以上の別の国民的アイドルが存在していたのかもしれない(どこかで歌手になる夢を諦めてしまった…)。そのアイドルがいない世界を、僕らは生きているのかもしれない。まるでパラレルワールドの話みたいだが。
どうしてこんなことを考えたのかというと、悲しいことであるが、子供が犠牲になる事件が目に付くからだ。将来の夢として「歌手になりたい」「ピアニストになりたい」なんてのを見ると、その子が本当に歌手になった世界があったのかもしれない、とも思う。国民的アイドルとまでは行かなくても、ファンを楽しませる歌手にはなれたのかも。あるいは、聞く人を感動させるようなピアニストにはなれたのかも。
人を殺めてはいけない理由の一つが、ここにある。
またこれは、何も芸能界に限らない。スポーツや科学、芸術の世界でも、同じことは言える。
話が少し深刻になってしまいました。
ともあれ、松田聖子のいる世界で良かった。聖子ちゃん、いつまでもお元気で。
もう40過ぎだと思うが、フリフリの服を着て歌えるとこなんて、やはり聖子ちゃんはスゴい。いくつになっても女の子はかわいらしくあっていい、と世の女性陣に思わせるところ、彼女の功績と言っていいだろう。
彼女がいなかったら、『青い珊瑚礁』も『白いパラソル』も『赤いスイートピー』も『ピンクのモーツァルト』も、そして『小麦色のマーメイド』も『瑠璃色も地球』も生まれなかっただろう。たとえ生まれていたとしても、同じ歌詞、同じメロディにはならなかったに違いない。歌はやはり、歌い手の雰囲気・音域・心意気に左右されるものだから。
そしてまた思う。『瞳はダイアモンド』や『SWEET MEMORIES』を口ずさみながら、僕らはサントリー〈樹氷〉をあんなには飲まなかったろう、と。
彼女がいなかったら、1980年代の歌謡シーンはまた違ったものになっていただろう。あるいは、別の女の子が同じような地位に付き、国民的アイドルになっていたのかもしれないが、それは聖子ちゃんの作り出した世界とはだいぶ異なったものになっていただろう。
さらに、どういう女の子かは想像できないが、聖子ちゃん以上の別の国民的アイドルが存在していたのかもしれない(どこかで歌手になる夢を諦めてしまった…)。そのアイドルがいない世界を、僕らは生きているのかもしれない。まるでパラレルワールドの話みたいだが。
どうしてこんなことを考えたのかというと、悲しいことであるが、子供が犠牲になる事件が目に付くからだ。将来の夢として「歌手になりたい」「ピアニストになりたい」なんてのを見ると、その子が本当に歌手になった世界があったのかもしれない、とも思う。国民的アイドルとまでは行かなくても、ファンを楽しませる歌手にはなれたのかも。あるいは、聞く人を感動させるようなピアニストにはなれたのかも。
人を殺めてはいけない理由の一つが、ここにある。
またこれは、何も芸能界に限らない。スポーツや科学、芸術の世界でも、同じことは言える。
話が少し深刻になってしまいました。
ともあれ、松田聖子のいる世界で良かった。聖子ちゃん、いつまでもお元気で。