たとえばシャツを着るとする。それは中国やベトナムの、名も知らぬ女工さんたちが縫ってくれたものであるかもしれない。
たとえばホカホカのご飯を食べるとする。それはお百姓さん、JAの人、運ぶ人、そして炊いてくれたおかあさんや奥さん、あるいは食堂のおばちゃんがいてこそである。
目の前にあるありとあらゆる物は、誰かの手によって作り出されたもの。
…と、ここまではよくある話。
たとえば水を飲む。それは自然に濾過されたものであったり、微生物が浄化してくれたり、水道局の人たちが働いてくれるからである。
たとえば呼吸をする。取り込まれるその酸素は、雑草含め、地球上の植物たちが作り出しているものである。
アニメ『ドラゴンボール』で、孫悟空の大技に「元気玉」というのがある。生きとし生けるものすべて(岩石もあったか?)から少しずつパワーを分けてもらい、それを上空にまとめて敵に放つというもの。
別にあなただけ/僕だけに酸素を作ったり水をきれいにしたりしているわけじゃあない。でも、少しずつ少しずつ、皆があなた/僕を応援しているってこと。元気玉ほど派手ではないけれど、そういうイメージ。
そんなこと考えもしない人もいるだろうけど、これは事実だし、年とるとこういうのが実感としてわかってくる。お年寄りがよく「ありがたや」と言うのも、働いていないにも関わらず生きていけるってことに感謝するとともに、こういうことが理解できてくるから。
その辺よく分かっていない人ってのは、周りをつい敵視してしまうのだけれど、そうじゃないってこと。いや、敵でさえ、自分の成長のためには必要なんだ(必要悪みたいなもの)という考え方もある。
あなた/僕が生まれてこのかた、直接に間接に一体何万人、何百万人の人たち、植物そして微生物たちがあなた/僕を「生かして」くれたのだろう。そんなこと考えていくと、「ありがたいことだ」と思わざるを得ない。
逆にあなたも、仕事や勉強あるいは存在自体を通じて、大なり小なりきっと誰かの役に立っているのに違いない。
ついでながら、あなたや僕を生かしてくれている周りのすべてこそ、〈神さま〉〈仏さま〉ではないかという気がする。
…ひとり旅の電車に揺れながら、こんなことを考えていました。
なお、韓国からは先ほど帰ってきたところ。見聞録についてはまた後日。
〔写真は、高野山に向かう途中の伊賀上野にて〕