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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

“宿題”はなくならない

2016-08-28 08:38:11 | こころ
 7月の三連休、外せない用事があって3日とも出掛けることになった。せめて1日くらいは家でのんびりしたかった僕としては、すっかり気疲れしてしまったもの。
 追い打ちをかけるように高校生の娘が「子供部屋の仕切りを作りたい」と言い出し、翌週からそれをやる羽目に。夏休みの自由工作よろしく、トンカントンカンやっていた次第。体動かすので気は紛れたが、またまた疲れてしまった。

 夏休みも終盤となり、急ぎ宿題をこなしている子供たちも多いことだろう。無事に終えられることを願っています。
 当たり前ながら、それが終わったからって“宿題”が完了するわけではない。来年の夏休みにも宿題があるだろうし、その前の冬休みにもあるかもしれない。そのまた前にはテストも…。
 学校から卒業できたとしても就職に転居に、人によっては結婚に出産に育児に介護に、と宿題は続く。もちろん仕事で家庭で地域で、細かいこと含めいろいろとやることも出てくるだろう。これはおそらく一生続く。(こんなこと考えているとイヤになってしまうのだが、これが現実)

 就職なら就職、管理職なら管理職、そのあとは何の気苦労もなく穏やかに暮らせる日々が来るものだと思っていた。しかしそんな日々はおそらく一生訪れない。
 僕の場合、あと数年で定年なのでとりあえずそこでやれやれなのだが、そのあともたぶん働かないといけないだろうし、子供の結婚も心配しないといけないし孫ができればその世話、また町内会の役員なんかも回ってくることだろう。ご近所付き合いもまだまだ続く。
 いや、あの世というのがあるのなら、魂を磨くため、そこでも何かしらやるべきことはあるはず。あの世ならあの世での仕事や掃除、子孫を見守る、等々。神様仏様だって地球/宇宙の面倒を見ないといけないわけだし、僕ら何もしないでいられるというのは、きっとあり得ないのだろう。

 ところで、「宿題は~」と「宿題が~」には大きな違いがある。
 前者が「そもそも宿題とは」という非限定的であるのに対し、後者は「他ならぬこの宿題が」という限定的な意味になる。海外であれば、アクセント(強弱)で区別しているようだが。
 だからこの文章の場合、限定的ではなくいつまでも続くものなので「宿題は」となるのです。
 …ちょっとまた理屈っぽくなりました。

コメント
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