思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

理念=「有用な物語」の喪失ー保守主義への堕落 (哲学?)

2004-12-02 | 恋知(哲学)

理念=「有用な物語」をつくれなければ、人は、時流―状況に従い生きるだけか、または、その時々の気分に従っていきるだけという底の浅い生き方しかできなくなります。

私がいつも言う「能動的思考」とは、「有用な物語」をつくろうとする意識の働きーありようのことですが、1970年代後半以降の思想界は、マルクス主義への批判、というより反発から、サルトルの能動的思考-アンガジュマンーを嫌い、フランスの浅薄な新思想の直輸入と共に、ハイデッガーの受動性の思想の正しさを強調してきました。(マルクス主義がダメなのは、それが「物語」であるからではなく、「物語」であることを自覚できず、「科学的―客観的に正しい」と思い込んだところにあるのです)

その結果、理念という言葉にアレルギー反応を起こし、現状追認―保守主義の言動が社会を覆うようになってしまったのです。理念という概念に反発する奇妙―奇怪な「思想家」が大量に発生しました。

確かに、認識論―人間の認識の原理的なありよう、その意味と価値を解明するためには、いったんは徹底した受動性を身に付けることが必要ですし、具体的な認識にしても己を空しくして意識を透明にしなければなりません。しかしそれは、具体的・現実的次元でよく生きるための理念=「有用な物語」をつくるための前提としての作業にすぎないのです。

前提にすぎないものを本体だと勘違いすれば、人は、有用な物語をつくる必要や価値を自覚できず、保守主義に陥り、エロースの少ない底の浅い生き方しかできなくなってしまいます。
軽い人間の大流行、クールなことがかっこいい!熱いことはダサい、というわけです。時流―状況に流されること、その時々の気分で動くことがあたかも「正しい」かのごとく錯覚する精神の腐敗が進んでしまいました。

情熱を失えば人間はおしまいなのです。有用な理念やロマンを生み出せなければ、生きる意味は消えてしいます。 (「憧れ・想う世界」および「情熱」を参照して下さい)

どのような社会がよいか?という問いには、「客観的な正しい答え」はありません。
学問的分析によって人権思想や、自由や平等の理念が出てくるのではなく、逆にそのような皆が納得できる「力のある理念」の上に法学や政治学や社会学などの学問は成立しているのです。近代民主制社会の理論的支柱―ルソーの「社会契約論」も理念=有用な物語なのであり、経験的な「事実学」ではありません。

人生や社会の問題は、能動的思考が生み出す理念=有用な物語がなければ解決しません。こんな当たり前のことを強調しなければならないほど、日本の知的退廃は進んでいます。

ほんらい問題とされるのは、理念の質です。その内容がどのようなものか?どの程度のものか?現実問題の解決を可能にし、新たな未来を切り開いていくパワーをもっているか否か?なのです。お飾り、枕詞にすぎない理念=理念ならざる理念しか存在しない現状を変えていかなければ、日本人と日本社会に未来はありません。
 
ひとりひとりが、柔らかく豊かな心ー人間味あふれる愉しい世界ー生き生きとしたのびやかな人生をつくるための理念=有用な物語をつくり出し、共有できるものは皆で共有しようではありませんか。  1、2、3、ダァー!



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