思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

?市民=シチズンとは? (社会思想の最重要概念) 武田康弘

2004-12-10 | 社会思想
以下は、2003年10月に発表した文書を,鎌ヶ谷市の『街づくりーかまがや』からの依頼により加筆^改定したものです。(2004年12月10日)
実際に新聞に掲載するものは、これを少し短くした短縮版の予定です。

市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。

 ここで注意しなくてはいけないのは、〈公民=社会人〉と、〈国民〉とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
 市民=公民=社会人とは、自分は社会の中の受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一員なのだ、という自覚をもっている人のことです。繰り返します。市民とは、国民 (the- nation)ではなく公民(a-citizen)のことです。

公(おおやけ)とは、自分が生きている〈場〉の事は自分たちで考え、決定していくという自由と責任によってつくられるものです。その地域で、その国で生活している様々に異なる人々がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を問うことが公であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。念のために付け加えれば、官・役所が公なのではありません。官とは市民生活を下支えするサービス機関です。

国民ではなく市民=シチズンという概念は、自治政治=民主制を支えるものであり、21世紀にふさわしい言葉=考え方です。(もっともわが国では、すでに500年前から惣村、自治都市、一向宗自治区など多くの地域で自治政治が行われていましたが)

市民=公民になるためには、教育が必要です。個人が個人であると同時に公的意識をもった共同体の成員となるための基本は、家族という社会の最小単位のなかで自分の役割を考え、果たすところから始まります。

 21世紀における教育の柱は、国の人―国民の育成ではなく、精神的に自立した〈市民=公民=本物の社会人〉を育てることです。
もちろん、日本の教育では、「古事記」を中心とした日本の神話や様々な伝統の文化を子どもたちに学ばせることは大切なことです。しかし、それを山県有朋など明治の保守政治家が拵(こしら)えた「国家神道」(天皇を現人神(あらひとがみ)とする擬似的な一神教)の世界に呪縛されたまま教える、というのではあまりにお粗末です。 

また、歴史や伝統を学ぶことは、それに縛られるためではありません。伝統から新たな世界を発見し、伝統を現代に生かすという視点がなければ学ぶ意味がなくなります。そもそも歴史というものは、私たちがどのように生きたいか?という〈夢―未来への思い〉から絶えず再解釈されていくものなのですから。

 あまりに当然のことですが、ふつうの多くの人々は、日本という国家のために生きているわけではありませんし、よき日本人になることが人生の目的でもありません。一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。私たちの大多数は、日本語を使い、日本語で考え、日本の風土と文化の中で生きています。どう転んでも日本人である人間に、ことさら「日本」や「愛国」を強調する教育をしようとするのは、ひどく不自然で、気持ちの悪い話です。背後には、国家主義や天皇―皇室崇拝のアナクロニズムのイデオロギーがあるのでしょう。イマジネーションに乏しい心の貧しい人、一人の人間としての精神的自立に失敗した人は、必ず外部に超越的な価値をつくるものです。

明治政府の作った天皇制国家主義を容認するような思想は、日本人の個人としての力を弱めることで、日本社会の活力を奪ってしまうのです。ほんとうの愛国者とは、自国の問題点をよく知り、それを解決・克服していく人のことです。単純な日本万歳!の思想では、国が滅んでしまいます。国家主義者や保守主義者は、成熟した市民社会(そこでは国籍や民族ではなく、一人ひとりの人間性―個人の能力・魅力が問われるのです)を築き上げていくための最大の障害です。 
 
 ちゃんと考えることで、まともな思想を育てましょう。馬鹿げた日本主義では、日本人が世界の人々に敬愛される日は永遠にやってきません。自分たちだけにしか通用しない変な「常識」ではなく、なるほど、と納得できる普遍性のある常識=良識を育てることがこれからの課題です。

 必要なのは、よき日本人を育てる〈国民教育〉ではなく、よき市民=公民を育てる〈市民教育〉です。それが最良の意味での「国益」となるのです。自国の近代史も批判的に見ることのできる余裕のある人間=市民を育てることは、世界からの深い信頼を得ることで、日本社会の発展を約束します。市民=シチズンとしての私たち日本人がつくるのは、従来の「国民国家」の枠組みを超えた「市民国家」なのです。21世紀の世界に必要な品位の高い理念=『市民精神』を育成する相互教育の努力を皆で始めようではありませんか。

「市民が主役」とは、そういう意味です。

(2003年10月1日―2004年12月10日改定)







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