思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

この世の至高の存在とは誰か? 哲学?

2004-12-16 | 恋知(哲学)

生まれながらにして尊称で呼ばれる人間、敬語を用いられる人間が存在するとしたら、その社会は差別社会であり、民主制社会とは呼べません。

この世で一番偉い人、至高の存在とは、誰でしょうか?
それは、あなたです。わたしです。
この世の中であなた(わたし)以上に価値あるものは存在しません。これが、よき・美しい民主制社会の原理です。
人間の社会で、これ以上はないという至高の存在は、裸の個人としての一人ひとりの人間です。この原理の明晰な自覚化が、民主制社会の哲学なのです。 

皇室―皇族とは、不十分―未発達な市民社会が生み出した過去の残滓です。必要なのは、段階を踏んで徐々に彼らを〈市民社会〉に溶け込ませていく努力です。市民的自由―人権をしっかりと保障し、同時に特別視をやめていかなければいけません。時間をかけて穏やかに、一般的な「旧家」がもつ位置へとシフトしていくことが必要です。(『皇族の人権と市民精神の涵養』を参照して下さい。)

天皇を元首にするという自民党の憲法改正案は、よき・美しい市民社会を実現しようと努力する私たちへの挑戦であり、決して容認することはできません。

繰り返します。生まれながらに特別な存在として遇される人間がいるような社会は、民主制社会ではありません。
この世で至高の存在とは、裸の個人としての〈あなた〉であり〈わたし〉です。それ以上に価値あるものは存在しません。これは哲学の絶対の原理なのです。

固く形式的で偽善に満ちた国家社会ではなく、柔らかく愉しみの多い伸びやかな市民社会をつくり出すのは、あなたとわたしです。

白樺教育館のホームページー「17.人が生きるということ/哲学の本質」には、民主制社会の人間の哲学を記しました。少しハードですが、よろしければ見て下さい。
 これは、同時に、偉がりや独りよがりの嫌らしい心を、そのおおもとー発生源から絶つ哲学でもあります。原理は、自我をわざと徹底して肯定ー完全燃焼させること。そうすることで、人間の意識ははじめて透明になり、公正と拡がり=普遍性への道が開けます。
 (2004,12.17)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする