思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

【実存・市民思想】は哲学の原理です。

2007-04-11 | 恋知(哲学)

【国家・国民思想】に立脚するのではなく、
【実存・市民思想】に立脚することではじめて、国民は、国民であることをやめないで、同時にそれを越えた人間同士としてのつながりをもてるのですね。
まず何より先にひとりの人間であり、ひとりの男また女であるという土台の上に立つことではじめて、【地域社会人として・国民として・人類として】生きることも可能になります。これは哲学(普遍的な人間性の探求))の原理です。
右であれ左であれ、イデオロギーを先立てると、個人の輝きや広がりは抑えられて偏頗(へんぱ)な人間になってしまいます。
(以上は、大学生のS君の日記へのコメントです)

現代日本の歪んだ思想=人類的な普遍性の探求を後景に押しやり、人権という考えは日本には合わないとしてこれを否定し、日本人の伝統・国家・国民の常識を基準とせよ!という主張(八木秀次の「反人権宣言」〈ちくま新書〉)は、実存の否定=哲学の否定であり、極めて程度の低い国粋主義でしかありませんが、従来の左翼思想は、唯物論・マルクス主義という【客観主義】から抜けられないために、この愚かな国粋主義への有効な批判ができません。
右であれ、左であれ、「エリート」が社会を管理するという本質的に「反・民主主義」の思想(客観主義)を持つ限り、民の生活に価値を置く【民が主役の思想】=民知=恋知としての哲学は実現しません。
民の代行者のはずの政治家が民を支配する、民のサービスマンのはずの官僚がエリート風をふかせ民を抑圧する、ひとつの職業に過ぎない大学教師が民に教えを垂れる、こういう愚かなエリート主義が根っ子にある限り、個人性の豊かさが開花する民主制は実現しないのです。政治家や官僚や学者である前に、親や教師である前に、日本国民である前に、【ひとりの人間】であるという厳然たる事実を自覚することは、よき生を歩むための絶対条件です。哲学の原理である実存からの出発とは、その自覚化の営みです。こういう原理・原則さえ知らない思想とは、右であれ左であれ思想以前の戯言に過ぎません。

人間がよく生きるための思想の原理は、「国家・国民思想」ではなく、「実存・市民思想」にあるのです。 『主観を消去する日本というシステム』クリックもぜひ見て下さい。

武田康弘




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