心に感じられ、思われるところにつくこと、ありのままの素直な心を知るのは、ほんとうに難しいことです。
多くの場合、今の自分=自我を守ろうとする底意が働いて、どうしても言語・理論を先立ててしまうために、赤裸々な自身の心を知ることができません。
人間や社会の本質論次元において、何かいかにももっともらしい正論、一見明瞭で分かりやすい言説は、必ずひどく一面的です。事務的な話ではなく、人間のありようや生き方の問題について箇条書き的な明確さで表現することは、「言語」というものの特性上、ありえない話です。
哲学が難しいというのは、人間存在が多層的であることからくる宿命です。分かりやすくする努力は必要ですが、他の学問=「客観学」のように叙述することは、原理上不可能だといえます。
哲学は、主観性の知なのですが、主観を掘り進めるための最大の障害は、「自我」です。私がいう自我とは、【言語・理論によって武装された自分という意識】のことですが、この自我の鎧(よろい)を脱がないと、主観を掘る=純粋意識=考える作用が働きません。
「事象そのものへ」というのは、客観的な事実を、という意味ではなく、主観に感受される意識現象をそのまま知ろうということです。自覚せぬままに自我防衛の鎧を着ている己の意識を裸にする営みです。ありのままの心につく、というのは一見簡単そうですが、実はこの「幼子の心」を成人者が失わずに生きるというのは、ほんとうに難題です。哲学の難しさとは、「自我」の殻を破ることの難しさだといえるでしょう。
哲学は言葉ですが、言語に囚われている自我をその頚木(くびき)から解き放つように言葉を使うのです。「言語的思考」を越えるために言語を使うという逆説を生きる宿命を負っているのが哲学だと言えましょう。
こうあるべき、こうすべき、これでなくてはいけない、という「観念」や「型」を先立てるのではなく、心に感じられるままを掬い取るように知ろうという自然な態度が何よりも必要です。いかにも自然に見えるように演出する自然主義的は態度ではなく、柔らかくしなやかで自由な心が求められるのです。
意図的な自然性とは、最悪の自我主義ですが、これはわが日本人の多くが陥るひどい不幸だといえましょう。ほんとうに感じられるところにつくという練習は、相当な覚悟がないと出来ません。成人者が、自己欺瞞せずにありのままの心を知るのにはリスクが伴いますが、その営為は、何よりも豊かなエロースをもたらすもの。
言葉によって武装された自分からの脱却が「哲学する」ことのはじまりです。言い訳・観念・型ではなく、エロース豊かな世界を生み出す純粋意識の働きが紡(つむ)ぐ自在で自然な言葉と態度を目がけたい、私はそう思っています。
哲学することと理論で武装すること、率直な心と意識的な自然性とは、まったく別物です。
武田康弘