思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

広く生活者として哲学することと、哲学の専門家になることの違い

2007-05-12 | 恋知(哲学)

哲学史内哲学を専門家として行うことと、生活世界で哲学することの違いはどこにあるのでしょうか?

たとえ話をしてみます。
私は運動が好きで、よくしています。健康であることは、日々を気持ちよく過ごす条件でしょうが、そのためには、筋力や柔軟性や運動神経を鍛えることが必要です。また、球技や水泳などを遊びとしてするのは、とても面白いですね。
でも、
何かのスポーツ競技の選手を目指したことはなかったですし、なりたいと思ったこともありません。体を動かすことが楽しく、遊びとしてする競技は面白いのですが、陸上や水泳の競技者や格闘家や野球選手・・・になりたくはありませんでした。運動が好きだとはいっても、職業として毎日そればかりやるのはウンザリです。

哲学するのも同じです。
もとに戻して「考える」ことにはとても大きなエロースがありますし、よく生きるー生活や社会の問題を解決し、充実した日々を生むためには欠かせない営みですが、
それを狭く専門家としてやるー哲学史内で哲学することには、少しも悦びを感じませんし、それを職業にしたくもありません。
ふつうの多くの人にとっても同じだと思います。自分の頭で考えることは楽しくとも、哲学史を詳細に勉強し、哲学書ばかり読んでいるような生活をしたくはないでしょう。

運動をすることの意味と価値は、スポーツ選手になることにあるのではなく、筋力や柔軟性や運動神経を養うことが、たのしく充実した生活を営む上で必要だからです。考えることー哲学することの意味と価値も同じです。それが生活にエロースをもたらすからです。哲学史に詳しくなるためではありません。

民知として哲学するとは、そういうことです。誰かに従ったり、崇めたりするという不健康は生き方ではなく、自分自身で考え、自分自身として行動するための必須アイテムが、専門知ではない「民知」としての哲学だ、言えるでしょう。
好きでスポーツ選手を目指す人がいるのはいいですが、スポーツ競技者が生活者として健康である訳ではありません。それと同じで、好きで哲学の専門家になる人がいるのはいいですが、それと「生活世界でよく考える」という営みとは直接は関係しません。

市民として哲学するとは、二流の哲学という意味ではなく、ほんらいの健全な考える営みをするということです。自他の生によろこびを広げ、心の自立をつくる哲学を、市民が拓く哲学=民知と呼んだらいいと思っています。

武田康弘


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