思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「腑に落ちる知」が開く「響存」としての世界

2007-05-30 | 恋知(哲学)

「納得する」というのは、「腑に落ちる」と同義です。腑とは臓腑の腑(内臓)のことですから、知ろうとすることが心身の奥深くにまで届いたという意味です。

心身全体による会得ーそれは、何にもまして嬉しく、悦ばしく、愉しいこと。その深い自己納得の知は、不動の自信をもたらします。それが恋知(哲学)における知ですが、そのように「知る」習慣を身につけた人は、外なる価値には動じません。内的充実を広げ深める「私」の地点から他者・世界にも関わるのです。

この「私」とは、狭い自我=エゴではなく、普段は外なる規範・価値によって抑圧されている「黙せるコギトー(自己意識)」のことですが、それは、純粋意識の働きにより、心身全体に告げ知らされるようにやってくる「心の声」です。

仮面を脱ぎ、赤裸々な「私」を見つめること、社会的役割意識に囚われず、虚心になること、「裸」になることで開ける「私」の宇宙です。私が存在する世界が「私」にどのように受容されているのか?自己への抑圧が消えた時に見える世界です。

この広々とした深い実存の世界が、「私」に大きな悦び・エロースをもたらします。そういう「私」が他の「私」と共鳴しあう世界を生きるのが【響存】としての社会です。

そうであれば、公共世界は、交響世界となり、「私」にとって真に意味あるものとなりますが、それを可能にする原理は、最初に書いたとおり、腑に落ちる知―心身全体による会得にあるのです。

武田康弘




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