思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「誘導・i強制」と「教育」の違いは?「私は、」と言うことが絶対の条件

2008-03-03 | 教育
どのような言説も「主観」であることー「客観」とは背理であることを明らかにしたのはフッサールの偉大な業績で、これが深く了解されれば、いかなる宗教的回心をも上回る人類の実存的回心が起こる、という彼の言葉は、21世紀の現代なお貴重な「予言」だとわたしは確信します。

日本の教育が、教育ではなく馴到・誘導・強制でしかないという事態が、おぞましい近代天皇制=天皇教による圧政が敗戦によって終わった後もなお残ってしまったのは、日本的な「型の文化」が「客観学」と融合させられてきたために「主観性の知」が育たず、単純な「事実学」の累積が勉強であり学問である、という非生産的で非人間的なエロースに乏しい知の支配が続いているからです。

人間や社会問題という部分ではなく、全体的判断・理性が求められる領域においても、どこかに正解がある・「よい」のひな形がある・あるべき型が決まっている、という想念に深く囚われているために、権威者の意向に従い集団同調する他なく、自分の頭で考えるという営みが始まりません。心身が丸ごと客観神話の中で眠りこまされているために、情報を集め整理し記憶するというレベルを超えて自分で考える=主観を鍛えるという作業が「恐ろしくて」出来ない=脅迫神経症に陥る他ないのです。これは「国民病」ですが、これでは自分の生の内側から悦び・充実が来ることはなく、いつも他者の目を気にしてビクビク生きる不幸から抜けられません。それに耐えられなくなって今度は自分の世界に閉じこもりオタクになる、なんとも酷い話でしかありませんが、これは哲学的には、「客観」とは背理であることが了解できない問題と重なります。

したがって日本の教育とは、本質的にはいつも「洗脳」でしかないわけで、教師は「客観的な正解」を言う人、人間ではなくマシーンに過ぎなくなります。頭の使い方―自分で考える方法を教えるのではなく、「ひな形」に誘導する役割を担うのです。教場に主語はありません。学校が主語になり、抽象的で非人格的な教師が主語になります。家庭でも事情は同じで、子どもたちは、世間や社会一般が主語となる言説に取り囲まれてしまうために、個人として、自分自身として生きる術と能力を奪われるのです。主語にはならないものが主語となる倒錯した世界に住めば、「私」は消えるわけですが、人間である限りほんとうに「私」を消すことはできませんから、その隠れた「私」は鍛えられることなく、幼児的なまま形だけが大人になり、「お上手」で内容の貧しい人間に育ってしまいます。全教科100点を取る優秀な「事実人」(人間ではなくただの人)が誕生しても、害あって益なしです。

こういう「型はめ」ではないエロース豊かな教育を生むための基本条件は、大人が「私は、」と語ること、主語=言説の責任主体を明瞭にして、はっきりと自分の感じ思うことを述べることです。

もう20年ほど前のことですが、
小学5年生からの教え子であった木村健君が大学生の時に次のような発言をしました。
わたしの主宰する「哲学研究会」でのひとこまですが、まだ通いはじめて日の浅かった佐野力さん(当時IMB営業部長・後に日本オラクルの初代社長)は、「タケセンは、いつも自分の意見を強く言うが、それでは他の人が圧迫されて、強制のようになるのではないか」と言ったところ、
木村君は、「ぼくは小学5年生の時にはじめて武田先生に出会って、声が大きくはっきり自分の考えを言うので最初ビックリしたが、それはすぐに慣れた。僕はその時、【僕を自由にしてくれる人に初めて出会った】と思った。僕の周りの大人はみな意見を言わなかったが、僕は彼らの暗黙の考えに縛られてそこから抜けられず、苦しかった。自分の考えを説明しながら、はっきり主張する武田先生は、「私は、」と言うことで、他の人やこどもたちにも「自由に考える」ことを可能にした。自分の考えを絶対だと思って人に押し付けるのは黙っている大人の方だ。「私の意見」をきちんと言わなければ、他人の意見を尊重することもできない。だからおじさん(佐野さんのこと)の言うのとは逆だ」と。
わたしは木村君の話を聞いてすっかり感心し、感激したことを今でも鮮明に覚えています。

日本社会の主観性を消去する詐術については以前書きましたが、ここからの脱却は、「私は、」と語ることによって可能になります。【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】の育成こそが何よりも一番に求められるのです。それなくしては何事も成就しません。繰り返しますが、客観とは背理である限り、主観性を開発し深め鍛える【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】に依拠する以外には、よき人間と社会を生む方法はないのです。誘導や型はめー洗脳ではなく、教育(問答的思考法)が必要です。

武田康弘

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