思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一般化」は、危険な現代病

2008-12-02 | 日記
11月27日のブログ=「一般性」への堕落は、人間性のエロースを消去する。の続きです。


クルマを買うのも、家を建てるのも、学校を選ぶのもみなその人のもつ想念(イデオロギー)によります。人間は、何事に対しても価値判断しつつ生きるわけですから、生きるというのは、イデオロギーと共に歩むということです。これは原理中の原理であり、覆すことのできない「元事実」ですが、そのことの自覚が弱いと、人は「一般化」の海に沈んでしまい、自分の固有の価値=生の意味は消えます。

誰であれ、自分の生きる意味や価値―努力の方向を「一般化」に求めたのでは、生の悦びや輝きをつくれません。これは言うまでもないことでしょうが、どうもこの点についての自覚が弱いのが、現代社会の知的特徴のようです。巨大な管理社会の中で、哲学や思想もみな、技術知や客観学に陥り、大きな体制(一般)に飲み込まれてその存在価値を自ら消しています。「私」の主観を掘り進めることで豊かな「普遍性」の世界を開くというエロースの営みは、「一般化」という形に堕落させられているのです。

ベートーベンは、聴衆に鍛えられたとは言えますが、「一般的な曲」をつくろうとしたのではありません。セザンヌは、美のイデアを求めて苦闘したのであり、「一般的な美」をめがけたのではありません。特別な芸術的才能をもたない我々も、人生をどう生きるかは、みなそれぞれの創造であり、それぞれが個性的たらざるを得ないのです。「一般人」として生きるのではなく、【自分として生きる】のですから、誰でもみな、何をし・何をどう考え・どのように生きるかは、自己決定です。演出者など存在しないのです。その意味では人はみな作曲家なのであり、人のつくった曲を演奏するだけの人間はいません。

したがって、ほんらいの哲学や思想の役割は、それぞれの「主観性の領野」を鍛え、豊かなものとし、能動性―主体性を生みだすところにあります。

分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。


武田康弘
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