思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一般化のわな」ー強い危機感を持ちます。

2008-12-12 | 日記
以下は、「白樺ML」へのメールです。


染谷ひろみです。私のメールへの返信ありがとうございます。

ただの「一般化」に過ぎないことをマズイどころか、多くが「よい」とすら思っている!?
そうだとしたら、強い危機感を持ちます。
このことの核心を明確に指摘したこのブログはやっぱり凄い。
書き言葉を「死んだ言葉」と言ったのはソクラテスでしたっけ?
でもタケセンのブログ文や言葉は、頭になるほどと入るというよりは、心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じるのは何故なのでしょう。

タケセンが長年実践しつづけている「主観性の知を鍛える」ことは、本来なら家庭や学校などで当たり前のようになされなければいけないのでしょうが、それを「鍛える」のではなく「消去する」ことに一生懸命時間とお金をついやしていることが多いように思うのです。 こういう状況の中で、真逆(まっとう)なことを揺るぎなく実践しつづけている「白樺教育館」の価値は、はかりしれないほど大きいと思います。

それにしても、この「一般化の罠」は、はっきりと指摘されないとわからないものですが、多くの人がそれを「よい」と思ってしまうのは何故なのか?

私は、今の社会が全体的になんだか平べったくて重たい、受け身のムードが蔓延していることと重なるのではないかと思います。

でもここから抜け出るのは、とてもやっかいではないでしょうか。
「罠・詐術」とでもいうものにはまらない強さ・タケセンの言う「主観性の知」を鍛えることがないと、ひきずり込まれて溺れてしまいますよね。また、逆に無自覚ではあれ、自分が周囲の人を引きずり込むほうの側になっているかもしれませんよね?

家庭や学校や友人の間で、「一般化」にとどまらず「主観性を深めていく」ような対話や実践をしていくことの大切さを痛感しますが、自分の中でそれを行なう土壌(大元)を鍛える場がこの国にはあまりになさすぎると思うのです。繰り返しになりますが、そんな国にあっても長年、揺るぎなく実践しつづけているタケセン・白樺教育館の存在は、ほんとうに貴重です。

染谷ひろみ

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武田です。

染谷さん、ピッタリ!の感想、ありがとう。

もし、わたしの「書き言葉」が、「心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じる」のであれば、大変に嬉しいことです(光栄)。
まあ、染谷さんはわたしと直接に対話をしているので、書き言葉でも「生きている」と感じるのでしょう。

ただ、ひとつ思うのは、わたしの表現仕方は「一般的なよい」とは異なるのではないか、ということです。「一般化」を拒否しつつ分かりよく、という試みが「成功」するのは、読む人の生き方にもよるわけで、わたしの書き言葉は、現代標準からは批判される類かもしれません。ビビットに生きている人には大変受けがいいのですが、形式優先で生きている人には不評ですね(小学生以来作文はいつも最高評価でしたので、不思議なことに学校の先生には受けたのですね~笑)。

また、話言葉、書き言葉を問わず、大事なのは言語の持つ含意性(表現性)です。ただ明示的に明瞭な言葉を使うだけではダメなのです。言葉の意味が深く・濃く相手に届くには、表現仕方を工夫しないといけません。言葉の意味は、「明示的な内容」と「表現性」が融合して浮かび上がるものなので、思想的な文章になると、ただ明瞭に内容を示せばいいというものではないのです。リズムやテンポを工夫しないとメロディー(思想内容)はうまく流れません。パワーを持って立体化しないと内容がよく伝わらず、面白みも生まれませんが、なかなかうまくいかないものです。染谷さんの文章は、いつも立体的で生きていますね。


武田康弘
コメント
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