思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一般化」は危険な現代病 へのコメント?-染谷ひろみ

2008-12-06 | 日記
以下は、「白樺ML」メールです。


哲学ブログつづき(「一般化」は危険な現代病)をよんで、またうなりました。
これすごいよタケセン~。感動および衝撃うけてます。
古林さんが言うように「学」の世界などでは要注意ってその通りですよね。
程度の差こそあれ私たち・私自身にもいえることだと感じて衝撃をうけた私です。
もちろん一般化することは大切でそれなくては社会生活は営めないし、なんにつけある枠組みがあって、その枠組みの中で自分の感じたことや奥底からわいてくる思い・考えを話したり発していくわけですが、
大切なのは、その内容を一般化のレベルにとどめずに、深めることだと今さらながら思います。
「一般化」することだけにとどまり続け(危ない落とし穴だ~貧しい生になっちゃいそう…)自分から動く・一歩ふみだす・試行錯誤を繰り返すことがないなら、今の社会のさまざまな問題点や身近でいえば自分の家庭の中で問題点に気がついた時など、解決の方向に向かって進んでいくことなど不可能なのだと思えています。
今の現実はどこもかしこもこの「一般化」をめざしそこまでにとどまる生が蔓延してるようでありながらも、ここ最近、多くのふつうの人はこのままではマズイってことをうすうす気がついているのではないでしょうか??

染谷ひろみ

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[ タケセン ] [2008/12/09 23:45] [ Myblog ] [ 削除 ]

染谷ひろみさん、メール感謝です。とてもいい内容で嬉しいです。
ただ、一般化の危険性については、ふつうの人も評論家も学者も教師もほどんど気づいていないと思います。
むしろ一般化が「よい」とさえ思っているのではないでしょうか?
だから、積極的に「一般化」の危険性や愚かさを訴えていく必要を感じます。
いまは、哲学や思想まで「一般化」の海に沈み、その役目を自ら放棄しています。
「主観性の知」の開発、それが核心です。

武田康弘

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「一般化」の危険性へのコメント?ー古林治

2008-12-06 | 日記
以下は、白樺MLです。

古林です。

次の一節には本当になるほど、と思い至ります。
『分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。』


で、自身のさまざまな体験を振り返ってみると、私にはさらに以下のように感じられます。
優れた分析や現状認識そしてそこから生まれる良質な解決策を実現させるのは、その当事者の実存の深み(普遍性の追求)からやってくる力だ、と。

たとえば、他者性が大事だとか対話が大事だという言説があるけれど、
人によっては強大な説得力を持つ一方、まるで説得力を持たない人もいます。
その違いはその人がどのように良い生(普遍性)を追及してきたかにかかって
います。当たり前ですけどね(笑)。

このことを私流に端的に表現するとこんな感じになりますかね。
優れた一般化は個人の普遍性の追求(実存の深み)から生み出される力によって支えられている。
一般化を生業にする人たちには、このことを深く自覚して欲しいと思います。
(学者さんとか官僚さんというのもこの生業の一つでしょうかね。)


そうそう、一般性とか普遍性という言葉の意味をつかむのは結構難しいです。
その昔、武田さんが子供たちのために書いたメモがとてもわかりやすいので、
引用しておきます。

正しさの3種類について。
1. 絶対の正しさ
誰がなんと言おうとぼくの考えはゼッタイ正しいんだ。とか、偉い人(又は神様)が
 言ったことだからゼッタイなんだ。・・
2. 一般的な正しさ
だいたいこんなところが正解だよ。みんなもそう言ってるし。とか千人からアンケートを
 とった結果このようになリました。・・
3. 普遍的な正しさ
なるほど、そうだなあ。と深く納得する。腑におちる。

 哲学で言う正しさとは、この3.)です。哲学では、1.)絶対の正しさというものは認めませんし、2.)一般的な正しさでは満足しません。
3.)の正しさをつくるためには、疑い・試し・確かめること。自分の頭でよ一く考えたことを、他のひとに示すこと。これを何度もくリかえしてゆく必要があります。だんだんとみんなが深くナットクする〈考え>にきたえてゆく営みを、「哲学する」と言うのです。
また、科学的な正しさとは、この3.)の中の一部分です。
〔1998年4月8日 武田康弘〕

古林治
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