これが「美術館」!?
ただの「催し物会場」でしかない。
無機的で殺風景。
なんの味わいもない。
落ち着き、ゆとり、ぬくもり、豊かさ、とは無縁の空間。
機能だけを求めて「一般化」し、そこに建築家のエゴを投影すればどういうことになるのか、その見本のような建造物、それが『国立新美術館』でしょう。
普遍性=深い納得の世界とは無縁です。
今日、「ピカソ展」に行き、はじめてこの建物に入り、わたしは呆れてしまいまいした。
内容の豊かさ・美しさがなく、センスの次元が低く、細部に神経が通っていないために、空間とも建造物の質感とも心が少しも通わないのです。
肝心のピカソ展は、大作・代表作が多く、素晴らしいものでした。
わたしの部屋には「ピカソ全集」があり、長年見ていますが、ほんもののピカソからは、巨大なパワーが放射されます。
ふと思いました。ピカソの大胆な冒険・飛翔する自由を可能にしたのは「父」であるセザンヌ(美のイデアの探究者)なのだと。
(なお、図録の印刷は「セザンヌ主義展」とは異なり、すぐれています。)
武田康弘
ただの「催し物会場」でしかない。
無機的で殺風景。
なんの味わいもない。
落ち着き、ゆとり、ぬくもり、豊かさ、とは無縁の空間。
機能だけを求めて「一般化」し、そこに建築家のエゴを投影すればどういうことになるのか、その見本のような建造物、それが『国立新美術館』でしょう。
普遍性=深い納得の世界とは無縁です。
今日、「ピカソ展」に行き、はじめてこの建物に入り、わたしは呆れてしまいまいした。
内容の豊かさ・美しさがなく、センスの次元が低く、細部に神経が通っていないために、空間とも建造物の質感とも心が少しも通わないのです。
肝心のピカソ展は、大作・代表作が多く、素晴らしいものでした。
わたしの部屋には「ピカソ全集」があり、長年見ていますが、ほんもののピカソからは、巨大なパワーが放射されます。
ふと思いました。ピカソの大胆な冒険・飛翔する自由を可能にしたのは「父」であるセザンヌ(美のイデアの探究者)なのだと。
(なお、図録の印刷は「セザンヌ主義展」とは異なり、すぐれています。)
武田康弘