わたしの哲学は、深く強く「わたしの存在・人間の存在」を愛し、肯定するものです。しかし、自分の現状や他者の現状や社会の現状は、厳しく批判します。
「存在」への深い肯定=愛が支える「現状」への批判、それが私の哲学です。
その逆をしている人が多いですが、それは甘く弱い思想であり、生と社会の現実をよく変えていくことはできません。それでは、いくら言葉の上で「精緻」で「正しい」思想を語ろうとも、結局は、現状を是認し現状に留まる保守主義をしか招来しません。哲学が保守主義になれば、それは必ず腐ります。根源的に考える営みと保守主義とが相容れないのは当然の話ですが、こんなことも分からない「哲学者」が大勢いるのには呆れるほかありません。
現状追認の哲学!?なんという愚かさ。
武田康弘
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愚かな哲学とは? (ミクシー)
2009-10-27 10:06:07
ヨッシー 2009年10月27日 05:35
タケセンさん
愚かであることは判りますし、愚か者が多いと思います。が、「愚かな哲学」という言いは、奇妙ですね。そんなの哲学ではないですね。
正当なものとその真逆のものとの間のグラデーションもありますよね。
ではでは
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タケセン 2009年10月27日 09:48
ヨッシーさん、コメントありがとう。
そうですよね。
技術主義のような哲学、
ハウツーのような哲学、
現状是認の保守主義の哲学、
正当化のための哲学、
権威の哲学(東大権威主義、左翼権威主義、官僚権威主義・・・)、
客観主義の哲学、
博識(=知識量)の哲学
確かに、そういうものは哲学ではない、でしょうね。
しかし、それが哲学と呼ばれたり、哲学を名乗っています。
わたしは、そのことを批判しました。
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Unknown (青木里佳)
2009-10-31 01:18:19
わたしの哲学は、深く強く「わたしの存在・人間の存在」を愛し、肯定するもの
です。(武田さん)
今の社会はわたし(自分)の存在を深く強く肯定できてない人が多いと思います。
競争主義・勝ち負けの社会の中で、わたしの存在を周りと比較してしまうこと
や、あるいは親や周りに比較されて劣等感を抱いてしまう人も少なくないと思い
ます。
それと反対に「わたしが好き」と言う人もいますが、わたしの存在を本当に肯定
しているのではなく、自我や自己愛が強くて、中身よりも外見や物質的なもので
自分を飾ろうとしている、つまり中身に自信がないから物に頼るという価値観に
陥ってしまうのだと思います。
その例が社会的身分や学歴、収入などで偉そうにしている人達なのでしょう。
そういう人達がもてはやされる・有利な社会なので、肩書きがない人達は嫌な思
いをしたり、劣等感を深めたりするのでしょう。
その劣等感を埋めるために、あるいはその歪んだ価値観が当たり前だと思い込ん
で、我が子を必死でエリートコースへ歩ませようとしたり、自分が得られなかっ
たものを子供に託すように押し付ける大人が多いですね。
その問題の根底にあるのは、やはり外からの価値観が中心になっていること、人
々の意識の中に当たり前として刷り込まれている(洗脳?笑)からですね。
中身を深める、中からの価値観の社会になれば平和になるのになぁ。
まだまだ時間がかかりそうですね。
競争主義→恋知 (タケセン)
2009-10-31 12:23:14
青木りかさん、コメントありがとう。
そうですよね。
羅列的な事実の暗記&外なる価値を追いかける「競争主義」という思想を刷り込まれた人間は、内的世界が広がらず、脅迫神経症者として生きることになりますが、これほど不幸なことはありません。
世間の価値観に支配され、自分が自分として生きることができない悲惨から抜け出すには、恋知(ほんらいの哲学=具体的経験に基づき自分の頭で考える)の営みが不可欠だと思います。