思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

天皇の国会開会の辞について

2009-10-24 | 社会批評

以下は、ネットニュースです。

 岡田外相は23日朝の閣議後の閣僚懇談会で、国会の開会式で行われる天皇陛下のお言葉について、「陛下の思いが入ったお言葉をいただけるような工夫ができないか」と注文をつけた。
 岡田外相は「政治的な意味合いが入ってはいけないなど、難しい問題はあると思う」とした上で、「陛下の思いが少しは入ったお言葉をいただけるような工夫ができないものか」と述べ、毎回同じお言葉にならないような仕組みづくりを求めた。
 国会開会式での天皇陛下のお言葉は慣例で毎回1分程度で、「国会が使命を十分に果たし、国民の信託に応えられることを切に希望します」などと述べられる。

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天皇および皇室というのは、新憲法の下では実際社会への影響を持たず、日本の歴史の「名残」のようなものですから、「国事行為」は最低限にするのがよいでしょう。しかも、できるだけ儀式的ではなく、柔らかく自然な感じの行為が望ましいと思います。

天皇という地位は、主権の存する日本国民の意思に依っている(憲法第1条)のですから、権威的・特権的な扱いをするのは好ましことではありません。1947年には、「国で一番えらいのは、国民ひとりひとりです。」、と文部省も宣言しました。

天皇現人神(あらひとがみ)という「国家神道」の時代が終わり、新憲法が発布されて60年以上が経つのですから、天皇(家)も、ひとりの人間として自由に生きられるようにすべきでしょう。

なお、国会の開会の辞は、「主権在民」の民主主義国家にふさわしく、市民から「時の人」を選んで行うようにするとよいのです。
市民・国民の主体性――、国をつくっているのは、わたしとあなたである、との自覚を高めるような「開会の辞」にすべきです。
明治政府がつくった天皇制を引きずるのは、市民精神の涵養にとってマイナスですし、天皇の人権問題でもあります。


武田康弘
コメント (2)
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