思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

よーく見る、よーく聴く、よーく触れる、よーく味わう。

2009-10-07 | 恋知(哲学)

自分が「体験」したことを思い出し、どう感じたかを意識してみる。
その時に思ったことや、ふり返ってみたときに改めて思ったことを話してみる、書いてみる。
そうすると、そこからある見方・ある考え方が出てくる。

そのように、日々の具体的な経験を踏まえ、それをふり返り、そこから自分の考えをつくり他者と交流するという生の基本を失えば、人は根なし草になってしまう。どうも、現代社会では、受験エリートほど根なし草であり、有用な知を持たず、情報とその暗記による機械的な生に陥っている。

哲学もまた、書物情報に過ぎず、生活世界の具体的経験とは切れてしまい、本が先に(上に)くるという逆転の中にある。自分の心身から湧き上がるものではなく、活字によって整理された内容が先立ってしまう。しかし、その逆立ちに本人は気付かない。言葉のもつ概念が先行し、心身全体で感じ知る現実・生活・具体的経験が背景におしやられる。これでは人間の生の土台がつくれない。はじめの一歩が踏み出せない。

「記号化された知」が独り歩きをするため、「意味」は浮遊し、ただ言語・数字の羅列とパターン化した知に支配される。客観知しかないために、知の初源であり目的であるはずの「主観性の知」が育たない。

「自分が『体験』したことを思い出し、どう感じたかを意識してみる。」
という「はじめの一歩」が弱いと、知は根づく場所を持たず、死んでしまう。日本では、受験知に象徴される「死んだ知」が支配しているために、生きた人間は輝けない。

「意味論」の探究がなく「事実学」に覆われているこの闇の世界の窓を開け放つには、自分の足元をよく見、心身全体で感じ知る力を育てなくてはならない。
黙ってよーく見る、よーく聴く、よーく触れる、よーく味わう、言葉で誤魔化さず、言葉に逃げず、黙って、繰り返し、時間をかけて、よーく、よーく。


武田康弘


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