「官」と「公」のことばの意味について、簡潔にまとめてみました。
公は、歴史的には大きなイエとしての「おおやけ」から来ていて、領主権を指す。
官は、古代中国(隋・唐)をモデルにした集権型の権力機構を指し、明治時代からは国家に限定されて使われた。
「官」が国であり、市町村は「公」であり、「官公庁」という時は、国家と地方の両方を指し、公が下位、官が上位になる。
明治以降敗戦までの天皇は、【絶対公】であり、これに直属しているものが官と称されたので、世俗の官=国家を超越した【絶対公】としての天皇は、雲の上の存在であると同時に名もなき貧民の側に立つ者でもあるという両義性をもった(これが曲者で、天皇はひとりの男性であるにも関わらず、国家宗教の絶対者となり、それゆえにいつも「聖」としてあらゆる責任を免れた。よいことは全て天皇の功績、悪いことは全て天皇以外の者の責任!?!?こういう曖昧で都合のよい無責任性をその本質とするシステムが近代天皇制である)。
第二次大戦の敗戦による終戦後は、「日本国憲法」の誕生により※、わが国は、主権在民の近代市民国家へと大きく舵を切ることになったが、ここでは、「公共性」とは、個々人の共同性・相互性へと変わり、国家=官も、それ以外の公も、市民の公共性を下支えする道具となった。官も公も、市民・国民への奉仕者なのある。
※現「日本国憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正という形を取ったが、明治憲法は、天皇が臣民に与えるという欽定憲法であり、主権在民の立憲主義に立つ「日本国憲法」とは根本的に異なる。主権者が天皇から国民に変わり「主権在民」となったのは、革命に等しい。
以上は、原理次元の話だが、それを明晰に自覚し、そこから逸脱するような官府の言動に対しては、明確に「ノー」を突き付けるのが、わたしたち市民の権利であり義務であるはず。
国家とは、右翼の想うような「命」ではなく、左翼の言うような「悪」でもない。市民の公共性を支え・つくるのが国家の存在意味であり、国家はふつうの市民の意思によってつくられるもの=市民国家。
近代民主主義社会における国家とは、市民の公共性を実現するためにのみ存在するのであり、もしそこから逸脱すれば、国家権力はその正当性を失う。
武田康弘