思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原理的思考(哲学)と原理主義(絶対化)とは全く異なります。

2010-06-14 | 恋知(哲学)

昨日のブログへの質問とお応え

Sam
2010年06月13日 19:33


理想はイデオロギーを招来し、原理はそのイデオロギーを断ち切り健全な思考の礎となる。
確かに!

改めて一つ確認させてください。
『原理』とは、とことんまで考え抜いた挙句、誰もがそう考えざるを得ないという根源的な考えのこと、ですね。私たちはその基本的な考え(原理)を基礎に思考を積み上げ合意形成していく。そうでないと、すべての思考が砂上の楼閣と化してしまう。
(ただし、それは絶対的な正しさとか理想とは異なるものである。)

実は当初、私も原理という語に戸惑いを覚えました。多分多くの方が同じような感じを持っていると思うので少しそのことについて触れます。
原理という語は日常ではまず使われることはありません。初めてお目にかかるのは中学以降ではないでしょうか。物理学の授業だったように思います。(数学では確か公理という語が使われましたが、これも同義でしょうか。)
不幸なことに、私は物理の授業で、原理とは(絶対的)真理に近いものとして教えられました。おそらく多くの方が似た経験を持っているのではと想像します。
「正しいのはこれだ!」と押し付けられれば、誰しも能動的に学ぼうという気がそがれてしまい、ウンザリしてしまいます。日本人の理数系離れもこのあたりに理由があるかもしれません。
科学の世界でいう原理も絶対的な正しさではないはずですが、教える側がすでにかなり混乱していますね。
原理を踏まえる思考を妨げる原因の一つはこのあたりにもありそうです。

また、「原理」と似て非なる「原理主義」という厄介な語もあります。こちらは書かれたものを文字面通り絶対的な正しさとして捉える考えですね。「原理」の意味をわかりにくくさせる困った概念です。

以上、「原理」の意味についての確認でした。

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タケセン
2010年06月13日 22:34

あらゆるものは、すべて幾つかの原子から成る、と古代ギリシャのデモクリトス(ソクラテスと同年)は言いましたが、この説明仕方は、極めて「原理」的です。それは、宗教的な物語や特定のイデオロギーではなく、人間の自然な推論の仕方であり、異なる文化に生きる人でもそれを追って考えることができるからです。そういう説明の仕方には普遍性があるわけで、その大元の鍵&出発点となる概念を「原理」と呼ぶわけです。だから、「原理」も絶対的なものではなく、より優れた原理が提示されれば、変わります。

原理的思考とは、優れた思考の別名です。
それとは反対の絶対を置く考え方(ロマンや理念の絶対化)を「原理主義」と呼ぶわけですが、それは現実次元の中に宗教的絶対性を持ちこむもので、原理的思考とは対極です。

例えば、近代の「法治国家」とは優れた原理ですが、なぜなんのために法があり、法による支配が必要なのかという意味が了解されないと、文脈・現実を無視した法律文の形式的な解釈が横行し、おそろしく窮屈で非人間的な管理社会を生んでしまいます。
しかし、だからと言って、法治国家という原理をなくすべきだと考えたらひどいことになります。

言葉が似ているから同じようなものと考えたら大間違いですよね。「言語中心主義」というレベルを超えて、言語の意味を知らない、ということでしょう(笑)。

よいコメント、ありがとう。

コメント
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