事実学や客観知に対して、
意味論としての知=「主観性の知」とは、総合する知であり、創造する知であり、生と深く結びついた知だ、と言えましょう。したがって、それは、問題解決の知であり、創意工夫の知であり、臨機応変の知なのです。企画、立案し、設計する知であり、自由対話を支える知でもあるのです。
主観性の知は、
何よりもまず、自分の五感で「感じる」ところから始まります。
したがって、主観性の知を育成するためには、
さまざまな事象を「感じ取る」練習が基盤となるわけです。たえず、生活の中で、直接経験につき、そこから「感じ知る」という営みを習慣化することが求められます。
それと同時に、
感情の多彩さ・豊かさの育成が欠かせません。そのためには、日々の豊かな対話と共に、詩や物語、音楽や美術、映画、ドキュメント・・・をよく味わい知ることが大切です。偏った感情や激情ではなく、こまやかで深く、共感性と生命愛に満ちた感情の育成が、人間のよき生の基盤となるからです。
また、
センスを磨くことは極めて重要です。数学の問題を解くにも、研究課題を見つけるにも、ことばを扱うにも、論争するにも、ものを選ぶにも、センスが悪ければよい成果は得られません。
センスは、自分から積極的にものごとに関わり、そこで失敗と成功を繰り返すことではじめて磨かます。他者の判断に従うのではなく、己を賭けて選択することがないと、センスはほんものにはなりません。センスとは情報ではなく、自分自身の内から湧き出る「よきもの」だからです。
意味論としての知=主観性の知が知の目的であり、それは人間がよく生きることに直結している知なのです。人間を幸福にするのは、主観性の知の力だと言えます。
ところが、日本の教育はこのことについて全く理解していないために、ただ事実学・客観学を集積することが価値だとしています。「客観神話」に深く侵されているのです。これでは、知は競争(勝ち負け)にしか過ぎなくなり、生の豊かさを育むものにはなりません。
武田康弘
※このブログは、2009年2月に出したものですが、doブログから移行するときに消えてしまいましたので(mixiにはあります)再録します。