「新しい公共」を前に進めることは必須ですが、いまのところ、まだ、政府は普遍妥当的な見解を持てずにいます。原因は、掲げている理念を支える「哲学」の探求に欠けているからです。
封建制の社会や、天皇制の社会における公共ではなく、近代民主主義社会における公共が「新しい公共」なのですが、政府の宣言案はその点も明瞭ではありません。
いかに社会の中で生きるか、という社会倫理は、封建道徳や武士道徳ではなく、民主的倫理として追求しなければなりません。民主的倫理という哲学的土台がないと、新しい公共(=近代民主主義社会における公共)についての普遍妥当的な見解はつくれないからです。
歴史的にも「民主主義社会における公共」についての本質論的探求はほとんど行われきませんでしたので、これから「公共の哲学」は、その課題に全力をあげて取り組まなければならないのです。
頑張らねば~。