武田さんへ
人権という思想を「理想」として措定することは出来ないのでしょうか?
K
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Kさん
そうです。出来ないのです。「理想」と考えてはいけないのです。合意(=公共のルール)としての人権も、絶対的(カント的)人権も、どちらも「理想」ではなく、「原理」として措定するのです。
あるべき姿(=理想)だとすると、必ず、(1)別のあるべき姿とのイデオロギー闘争になるか、(2)妥当を導く議論を回避し、複数の理想を並べたてることになるか、そのどちらかにしかならず、不毛です。
社会(公共や政治も)の在り方の問題は、「理想」を置くことを禁じ手にしなければなりません。個人の領域で「理想」や「夢」をもつのはよいのですが、社会、公共、政治思想においは、どのような「原理」の上に社会をつくるのか、と問わなければならず、「理想」を置く考え方は、必ず「宗教」的な絶対性に行きつきます。そのために(1)か(2)のどちらかの不毛な世界に陥るしかなくなるのです。
「原理」とは、例えば信号機のようなものです。そのシステムがなければ困る、信号を互いに守り合わなくては自他共に困る、そういうシステムは、個人の損得や趣向を超えて、普遍的に妥当するものです。信号機のシステムを「理想」といったら変ですよね。
武田
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武田さんへ
では、人権を「理想」ではなく、社会を構成する「原理」と考えればよいのでしょうか?
K
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Kさん
その通りです。
近代民主主義社会成立の根拠となるもの=「原理」が、人権思想なのです。
「理想」を置くという考え方と、「原理」は何かを問う思考は、根本的に異なるのです。「理想」という発想をしてしまうと、問題の解決は不可能になります。「原理」を知ることは、宗教的な絶対・超越や○○主義という政治イデオロギーから縁を切り、「民主的な公共性をもつ近代社会思想」を追求するための核心なのです。
武田