いまの中学校には、生徒の自由はまったくありません。
部活動では、指導教師の言う通りですし、入学式も卒業式も、運動会も文化祭も、みな学校側=教師が決め、生徒は従うだけ。
自分の頭で自由に考え、自由に対話し、自由に決める=そうであってはじめて自己責任という意識が生まれるわけですが、そのようにして個人を個人にするという思想がなく、学校は、ただ受験と部活のためにあるのです。
個人の輝き、個人の羽ばたき、個人の自由な思想の深まりと広がりを育てるという考えは、完全に消え失せ、まるで子供は自動機械のようです。既成の価値観に従わせ、受動性を身につけさせる。批判せず、上手にやる、逆らわないーそういう子どもをつくる教育では、人間は人間になれません。愚かの極みです。
しかし、現代は、哲学まで保守主義の現状維持思想(笑えない笑い話)。これでは出口なしです。「受動性の言語ゲーム」という思想に染まり、哲学までもが既成の権威(ハーバード大や東大が偉い!)に頼るというテイタラクです。
現代の日本の中学校は、既成秩序に従うだけの去勢した子どもをつくる機関でしかないー35年間子どもと共に生きてきたわたしは、強くそう思います。
いまの日本に一番欠けているのは【自由】です。近代市民社会が成立している国で、「公共的自由―意見表明の権利」がこれほどない国は、世界のどこにもないでしょう。
中学時代に深い洗脳(上位者に従うだけ)を受けた日本人は、会社でも役所でも、自分の頭で考え、自由に意見を言う力を持ちません。【公共的自由の欠如】、これが現代日本の最大問題なのです。
必要なのは「自由」と「民主主義」です。上下倫理を廃し、民主的倫理に従い生きる。これが何より先に求められるはずです。
武田康弘
---------------------------
コメント
よしくんぱっと(2011年07月30日 06:03)
そのような日本に縛られない自由が重要な一方で、そのような日本に縛られる自由というのもあってよいと思います。
ーーーーーーーーーーーーー
ちゃぼ(2011年07月30日 09:48)
> よしくんぱっとさん
論旨を外してます。自由とは言い換えれば、主体性を持って選択可能ということ、自由がないというテーゼに対してはコメントは意味不明です。
ーーーーーーーーーーーーー
タケセン(2011年07月30日 12:45)
公共的自由(=学校・会社・役所・地域・団体などにおける意見表明)がなければ、民主主義は内容としては始まりません。
日本は、敗戦後、民主制国家として再出発することを決め、国際的な約束としました(主権在民の新憲法の制定とサンフランシスコ講和条約)。
民主主義社会成立の基本条件は、互いの自由を承認・尊重し、それに依拠してルールを決めるということです。
それを可能にするためは、各自の主体性を育てる民主教育=「自分で考え、自由対話をし、決定する」が不可欠であり、それ以外の選択肢はないのです。
学校、教育委員会、文部科学省、政府は、民主主義を国是とする限り、それに反する政策・言動をとることは、ほんらいできません。そのことを明晰に自覚しないから、混乱が生じ、対等性・自由に基づく豊かな人間性が育たないのです。
「受験主義」(内申書という脅しに屈する人間をつくる)と「部活主義」(上下倫理を植え付ける)で金縛りにし、公共的自由を元から奪う教育は、根源悪でしかないというのがわたしの主張ですが、よしくんぱっとさんは、言語上の形式論理で、それ以外の選択も可能だ(=縛られる自由があってもよい)と言うに過ぎず、中身がありません。
ーーーーーーーーーー
(林)
2011-07-30 19:26:52
武田先生
武田先生のご意見に心から賛同いたします。
物言わず、物考えず、その結果、東日本全域で3.11以降、莫大な被害、損害を受けながらドイツやフランス等のような大規模なデモも起こらず傍観する無関心層が巣食う日本社会。
また、
孫正義社長が日本で事業をしていなければ、脱原発気運すら起こらなかったでしょう。
ーーーーーーーーーー
ありがとう (武田康弘)
2011-07-31 00:36:29
賛同のコメント、ありがとう。
林たけしさんは、ベストセラーとなった『ふざけるな校則』の著書ですものね。
確かに孫さんは、素晴らしい人間であり、経営者です。「国民栄誉賞」以上に値しますね。