思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌さんが応答しなかったわたしの「命の哲学」=不定形・不確実ゆえに輝くもの

2017-11-21 | 恋知(哲学)

 わたしは幼い頃から体調のよくない日が多く、内臓疾患に苦しめられた経験から、「生と死」の観念は、恐怖や不安と一体となって自己存在を支配してきました。 「命の哲学」としての人間性の肯定―【知・歴・財の所有ではなく、存在の魅力こそが人間の価値である】というわたしの中心思想は、この「生と死」の観念にその源流があります。「既存の制度の中で序列を競うような生き方は、全く生きるに値しない」という思いは、そのような意味での「命の哲学」から来る必然でしょう。

 認識論の原理中の原理は【直観=体験】であり、実存論の原理中の原理は【欲望】だ、とわたしは考えていますが、この欲望とは「命」の別名だと思います。 「命」とは燃えるもの、輪郭線のないもの、不定形なもので、死の確実性とは対極にあります。それゆえにネクロフィリア(死んでいるもの・固定しているものへの愛)の傾向にある人たちが対峙することをひどく恐れるものです。わたしは、日々幼い小学生とも30年間(いまでは40年間)以上交流=授業を越えた授業=をしてきましたが、幼い子ほど初発・初源の「命」の輝きー直接的な生のパワーをもち、大人の固定観念に嵌(は)まらない自由な発想をしますので、彼・彼女らと交わるのは実に悦ばしいことです。

  (以上は、2007年12月のblogの一部で、「命」をテーマにした金・武田の哲学往復書簡の続きでしたが、金泰昌さんからの応答はありませんでした)


武田康弘

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