誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。
経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。
人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。
人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。
ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。
いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。
内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。
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恋知の話(2)他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。関係性以上のもの。
身内であれ他人であれ、他者の意に合わせてしまう、
関係性をよくするために、他者の意向に迎合する、忖度する(笑)
という生き方は、納得を生まず、よろこびを生まず、人間の生きる価値を減じます。
エゴという意味はでない自分をしっかり貫くこと。
自分の五感につきよく考え、普遍性のある考え方を育てること。
目先の損得や利害を超え、関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くことがないと、人生は価値あるものになりません。
近い人であれ遠い人であれ、闘うべきは闘わないと、生きている意味が薄まり、やがては消えていきます。
関係性の齟齬(そご)を避けようとする弱い精神は、よきものを何も生まず、生きるよろこびの少ない灰色の人生と社会を生むだけです。
平板でつまらない人生、管理主義で息がつまる社会、エロースに乏しい魅力のない世界は、闘うことを忘れ、自分から発するよきもの=普遍性を貫かない人々がつくります。
繰り返します。
関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫く という基本的な姿勢をもたなければ、関係性は、必ず仲間主義・家族主義・同調主義にしかなりません。善美とは無縁のつまらない世界です。
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恋知の話(3)よい心、困った心。内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう~~
広々と開かれた世界へ。
明るさ・楽しさのある生き方に。
嬉しさが増す人間関係を。
面白みとよろこびの多い生活へ。
意味の濃い人生に。
前向きで豊かな精神を。
率直に意見を聞き合い、言い合える開かれた自己へ。
一番いけないのは、
他者を拒絶する心。
人を切ること。
耳を傾けないこと。
固く閉じた自己。
その閉じた自我を防衛するためにつく誤魔化(ごまか)しと嘘と捏造(ねつぞう)。
それは、嫌な人間関係を固定化し、問題の解決を不可能にします。
仲間以外は受け入れない閉じた人として生きているあなた、
閉じた家庭環境の中で生きている(生きざるをえない)あなた、
まず、他者を受け入れる表情や態度や話し方(声)を工夫してみましょう~~~~
ぎこちなくてもよいので、やわらかく、楽しげな表情をつくる練習を鏡の前で毎日してみてください。
にこやかな表情で周りの人に話す実践を少しづつはじめてみましょう。
自分が、わたしの家が、自国が、信仰が、に拘(こだわ)らずに、頭から心身から力を抜いて、遠く(とりわけ雲や空)を見て、広々とした気持ちのよい世界を想うのです。
楽しく開かれたイメージを他者に与える表情や言動は、自他をともに幸せにしますから、なによりお得で、徳を生みます。
情緒音痴の尖がり顔や無表情は、一つの得も徳もつくらず、自分も他者もみなを不幸にします。
心の内からのよろこびを生きるのは、人生の最大の価値ですが、そのためには、ちょっとした心構えと日々の練習があればよい、と思います。はじめてみませんか?
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恋知の話(4)「目の前主義」の現代人、意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。
「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。
それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。
しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。
その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。
プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。
判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。
したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。
現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。
時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。