「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。
それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。
しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。
その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。
プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。
判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。
したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。
現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。
時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。
武田康弘