民主的倫理とは、
形式としての倫理、外からの押しつけとしての道徳、上下関係に基づく倫理思想とは根本的に異なるもので、
内容としての倫理、ふつうの生活者の納得が得られる自然性をもちます。
それは、人はみな等しく「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの根本思想に基づく倫理ですし、
日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を現実化する倫理です。
こうした倫理を踏まえることは、民主政治が行われる前提であり、同時に民主政治を可能にする条件でもあります。特権者や絶対者はいないというのが自治政治=民主政治の根本ですので、政治のあるべき姿は、民主共和制となります。
民主的倫理を知り守りそれに従う人生は、よろこびと充実をもたらし、生きる意味の濃い生活をつくります。自由と平等を現実化するのは民主的倫理に基づく人生です。個人生活においても社会生活においてもです。人生の意味と価値を豊かにし、互いに楽しく生きるための倫理、それが民主的倫理です。
一例として呼称。「さん」「くん」「先生」などについて言えば、
すべてを「さん」付けで統一するという形の上の平等とは違います。
討論の場では、経験のあるなし、年齢の上下などに無関係に「さん」付けで統一しなければなりませんが、
教場では、教える人には「先生」と呼ぶのがふさわしいのです。もちろん強制はいけませんが、教えるのと教わるのとは立場が異なります。教場では種々の責任は教える側にあり、先生はその役割を担う人ですから、それなりの敬称には意味があります。
内容で考えれば、機械的な「さん」付けが民主的とは言えません。
幼いころから親しくしている間柄では、「君(くん)」付けがふさわしいこともあります。
要は、実際の人間関係のありようを反映して、それにふさわしい呼び名にすることです。
議員に「先生」付けは、笑話でしかなく、論外です。主権者の代行者を「先生」と呼ぶのは、愚かの証拠にしかなりません。
民主的倫理とは、形式ではありませんので、なんでも「一律」ではないのです。
中身・内容としてのよき自他の関係を考えて行為することがポイントです。
(補足)
わたしの息子は、小学5年生になるときに、「ぼくはお父さんの塾に行くことにしたよ。」と言い(なんでも自分で決める性格)通うことになりましたが、驚いたことに、はじめての日に、わたしを「先生!」と呼んだのです。「お父さん」と呼ばずに「先生」と言われて、わたしは、あ~、なるほどね、と感心してしまいました。確かに、教場では「お父さん」ではなく「先生」なのだよな~
英語の教科書では、先生も「ミスター」で、文化の違いですが、日本ではなじまないのではないでしょうか。教場でも先生を「さん」付けするという合意ができれば、そう変えてもいいとは思いますが、少なくとも今は無理でしょう。愛称で呼ぶのはよいと思いますし、また大学や大学院になれば、「さん」付けはあり得るでしょう。
武田康弘