★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Toto, I've got a feeling we're not in Kansas anymore.

2011-09-11 17:08:37 | 文学
「オズの魔法使い」はわたくしに人生を教えてくれた作品である。というのは嘘で、ドロシーちゃんが好きなだけである。出来るならわたくしはドロシーちゃんに生まれたかった。

この前、1939年のジュディ・ガーランド版の映画を見直して、改めてすさまじい出来のよさにビックリした。

この作品は随分政治的な解釈をされているようだけども、それが可能なように思われるほど、読者を子ども扱いしない。孤児でも移民でもいいが、今居る場所に居る理由を見出すための智慧が積み重ねられている感じがする。脳みそ、心臓、勇気、そしてふるさとを喪失していると思いこんでいる人物達が、それを埋めようとオズの魔法使いを求めて旅するが、なんとかみんなさしあたり平穏を得て落ち着くところに落ち着いてしまう。しかもその契機が……重要である。すなわち、オズの大魔法使すらもただの人間であることが明らかになって、みんなの喪失が喪失でなかったと目覚める物語の流れである。わるがしこい魔女だけがかわいそうだったが……、だから、「よい人間」である限り幸福になれるかもしれないと思わせる効果が巧妙に仕組まれた話である。それがアメリカ人の巧妙な自己肯定であるといえなくはないであろうが、それでもものを考えている感じは濃厚である。

これにくらべて、例えば日本の「桃太郎」は酷い。桃太郎は、桃から生まれる(←どう考えても人間じゃねえ……たぶん「桃」だろう)。お爺さんお婆さんの世話もせず、鬼ヶ島に行って手柄を立てようとでてゆく。そして、そこらにいた下等動物を餌で釣って部下にして軍団を作り、いきなり鬼達を虐殺。常識的に考えて、人間に近いと考えられるのは、鬼達の方であり、頭のいかれた桃と下等動物は酷いことしたよね……。桃太郎は、桃だから頭がおかしいのはまあいいとして、餌につられて部下になる下等動物もいかがなものか。考えてみれば、こいつらは我々の姿である。人間じゃない。何がいかんといえば、ドロシー達が何かが欠けていると自覚しているのに対して、桃達は自分に対して疑いを抱いていないところである。こういうのを動物レベルというのだ。あ、ごめん植物が混じってたわ。

日本に着いたとたん、きびだんごくれないと一歩も動かないとぬかす三人。説教するドロシーちゃん↓



最近の政権交代劇や大臣辞任劇をみるにつけ、つくづく我々の社会は完全にオワッとるなと思う。政治家もメディアもメディアに群がる我々もまだ人間じゃない。