★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

公開授業は後悔授業

2011-09-08 23:51:00 | 大学
今日は、附属S小学校に公開授業をみにいきました。マリンライナーに乗って20分てくてく歩いて10分、小学校に着くと実習生達が案外楽勝の顔して、というより単なる寝不足か緊張の面持ちでがんばっている。今日は4年生の副免の授業である。つまり彼らは二年目なので、変になれているかなり上手い(棒読み)。Cさんは、なぜか国語を回避して理科の授業をするらしい。A・Bさんたちも同じ時間に授業。そこまでして私に参観して欲しくないのであろうか、と私憤に駆られつつ、三クラスをぐるぐる回る。

Cさん……子どもとオタクに持たせたら何をするかわからない三種の神器、望遠鏡・顕微鏡・ビデオカメラ。そのうちのひとつ、顕微鏡を使った授業である(もう既に崩壊の予感)。はじめに雄蕊と雌蕊のはなしをしているから、わたくし、ふむふむゲーテの植物論でも講ずるつもりであらう、と妄想爆発していた。しかしテーマは、

「めしべにどうして実が出来るのだろう」


びっくりしたので、うろ覚えなのであるが、こんな感じであった。いきなり朝から下ネタですか。小学生ももじもじしている。というのは嘘で、ノートに、「人間にたとえると……」とか、がしがし書き始める。さすが附属学校。小学生より私の方が赤くなってきてしまう。花粉を顕微鏡でみるとかいう局面に入り、授業崩壊の近いことが激しく予感されたので、教室から逃げ出す。Iさん、人生オワッたもん勝ちです。ははは。

Aさん……社会主義リアリズムの傑作「大きなかぶ」の授業。昨年、S中学校で、重い中二病に罹患しているガキどもを怒鳴りつけていた叱咤激励していたT1さんであるが、さすがに小学校一年生にそれはまずいらしく、えへっ、という感じになってしまってやりにくそうであった。やはり調教師は相手が野獣である方が燃えてくるものである。ライオンに慣れていた人が、突然、「今日からあなたはうさちゃん担当ね」とか、逆に泣けてくるわ。というわけで、元気のなさそうなT1さんの授業を抜け出す。

Bさん……水の心やら人の心やらが出てくる詩を小学校五年生に授業していた。「水のこころ」、所謂「台所詩人」の作品である。モダニズムを通過した詩人の平易さは見かけだけである。戦後の詩については、メタファーを否定したところに出てくるメタファー、擬人法を否定したところの擬人法の問題を理解しとかないと、いわばスピリチュアルな(笑)説教がそこに書かれているように見えてしまう。T2さんのことである、そこはちゃんと理解していた、さすがだ。そうであればあるほどわいてくるのが、小学生に何を理解させたくてこの詩が教科書に採用されているのか、という疑問である。教科書編纂者は本当にこの詩を読めているのであろうか……。いずれにせよ、昨年もそうだったが、T2さんが水を得た魚になるためには、この作品では教材として半端である。授業の進め方も目的に向かっての論理を急かされている印象である。この場合の論理は拘束である。拘束を自由と感じるか、自由を自由と感じるかは人それぞれだが、T2さんの場合、前者では、内攻する自由を得るだけである。……それはともかく、昨年よりもかなり進歩があったんじゃなかろうか。達観とか切り替えの。

というわけで、全体的にかわいそうな感じであった……。