最近ご飯食べながらよんだもの。
右は、イースト・プレスの「まんがで読破」シリーズ。このシーリズはどこまでゆくつもりなのであろうか。『舞姫』とか『破戒』が出ていた頃は、はいはい金儲け金儲けと思っていたら、『資本論』とか『死に至る病』、『我が闘争』(←ヤメレ)、『アンチクリスト』まで出始めたのだった。なかなかよかったのが、坂口安吾の『白痴/堕落論』であるが、まんがは物語でなくてもまんがになりうるということを本格的に証明したのが偉い……なわけないだろう。私自身は、萌える物理学とか、ああいう類よりこのシリーズの方がよいと思う。無理に面白くしようとしてないところがいい。本書でも、アプリオリやアポステリオリなど、キャラクター化して欲しいところだがさすがにやってない。また女の子がほとんど色気がない絵で描かれていて気が散らぬ。実際、この『純粋理性批判』もそれなりに退屈だ。しかし、活字の『純粋理性批判』に付き合う体調管理と修業を考えると、耐えられる。このまんがを読んでも『純粋理性批判』はさっぱり分からないのであるが、まんがに出てくる女子高生が「カントの哲学がなぜ「批判哲学」と呼ばれているかわかったわ!」といきなり言い出したりするから、つい「まずいっ、おれもわかったわ!」ということにしておきたい。
左は冥王まさ子の『天馬空を行く』。この人の小説は、だいたい読んでいると思うが、最初に読んだのは『ある女のグリンプス』で、わりと楽しかったのでつづけていろいろ読んだのである。本書は、ある「聖家族」のヨーロッパ旅行記のような小説である。といっても、夫の龍夫が柄谷行人、弓子が妻の柄谷(原)真佐子(冥王まさ子)であることを頭から追い払うことはもう無理な話で、私は二人が七〇年代のおわりにどのような認識を得ていたのかという興味でしか読めなかった。というのは、言い過ぎであるが、そんな感じである。小説では一応、弓子の、思想的にも実生活的にも夫の小間使い的な従属状態から脱するためのどたばたが描かれているように見える。しかし、詳しくは言わぬが、弓子の語ることも龍夫(柄谷行人)にやや似ているところがある。ここが興味深い点である。あと、私は、知的な仕事に携わる男の、社会性が怖ろしく欠如した体たらくをを描いた小説が好きなのである。青山光二の『われらが風狂の師』とかね……。私はこういう小説を読みながら、過去の自分に歯ぎしりするのがなんとも好きである。