★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

蒼穹

2011-09-25 05:57:04 | 文学
 

梶井基次郎にならって、蒼穹をみていましたが、虚無の代わりに月が見えました。よかったよかった!

アーレントの恋人擁護

2011-09-25 05:05:42 | 思想


ハイデガーフォーラム以来、ちょっと気になることがあって『アーレント=ハイデガー往復書簡』とか、上の『アーレントとハイデガー』などを読み直している。後者は、比較的短い書物なので、全体を読み直してみた。大学の頃だったかそれ以降だったか、アーレントの『人間の条件』を読んだ。ポリスには、公的領域(仕事)に自由が、私的領域(労働)にこそ不自由があった、しかしその二つが近代の「社会」というものによって曖昧になってしまい、どちらかというと私的領域みたいな不自由さが我々を覆っている。と、彼女の主張を当時私は要約していたので、……まさに、女の子とのつきあいに自由はないが、論文には自由があるといった感じだと思ったものだった。(たぶんいま読めば、アーレントがそんな楽天的ではなかったことが判明するような気がするが……。)アーレントもハイデガーに負けず劣らず、過去の「人間」に対して何かロマン的幻想を抱いているようである、ぐらいに私は考えていた。

しかーし、女の子とのつきあいに自由はないとか考えているのは、やっぱりそりゃ倦怠期だからだろう……。我に返った後だろう……。世にロマン主義者が絶えないのは、恋愛には私的ではない(つまり相手がいる)のに何かを現世ならぬ自由を幻視させる効果があるからであろー。アーレントも酷い現世ではないポリスに恋愛しているのではなかろうか。アーレントも案外、ハイデガーの恋愛をそんなものと見ていたのかも知れない。ナチス協力者としてのハイデガーをユダヤ人として批判することは彼女の生存を賭けた「社会」的「労働」であり、非常に現世的なものであるから、それはそれである種の不自由な営みである。しかし彼女は彼女の主張通りに、そこから逃れようともしていたのではなかろうか。ハイデガーを擁護したのは彼が哲学の師匠であったためではなく、哲学と同時に恋した恋人であったからだ。

と、そんなことを妄想した。

私の妄想もなんの根拠もないが、『アーレントとハイデガー』もかなり妄想に走っていたように思われた。私は基本的に伝記研究はあまり好きでないのである。上の私のように何かわかったような気がしてしまう。以前に、松岡正剛が、露伴の晩年を描いた小林勇の『蝸牛庵訪問記』について書いたときに、露伴全集を読んでからこれを読めといっていたのは正しい。逆はよくない。まさに露伴も「労働」人間だったという気がしてきて、我々はなんだか自分と似ていて嬉しくなってしまうからだ。