★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死刑が歳をとって沈んでゆくようだった

2012-08-05 14:49:26 | 思想


最近希に見る傑作である。

ウルトラマンや仮面ライダーは言うまでもなく、歳を取らないうちに画面からさってしまうから年少の視聴者の思い出と共に若くあり続ける。「ドラゴンボール」の主人公も老化の兆候が現れたとたん天国に行ったり、子供の姿で生き返ったりする。「うる星やつら」なんか、どうやら作中の時間が止まっているらしい。見ている側の方が先に老いる。

わたしは、自分の子供時代に放映されていたり雑誌に載っていたりするほとんどの子供向けのフィクションを、大学院以降に知ることになったので、よくわからんが、それらは中年たちにとって「思い出」なのであろうと思う。

しかし、その「思い出」が勝手に自分たちと一緒に歳をとっていたらどうなるか。山上たつひこの『中春 こまわり君』はそういう作品である。「がきデカ」の登場人物は、いまや三十年の歳を重ねて、こまわり君たちはアラフォーとなり、担任の先生はもはや初老。介護や中間管理職の葛藤や病気に悩んでいる。。「がきデカ」がフリージャズみたいなノリだったとすれば、いまや奏者は演奏の途中で上司や妻や子どものことを考えてしまうのである。中に「痛い風」という作品があったが、むろんこれは作者の『光る風』のパロディであって、こまわり君に痛風が発症する話である。こまわり君は体質的にそうなのか?動物などに変態したりすることはできるし、言動は相変わらずなのだが、昔の「死刑」などのポーズを人前でとってみると、「全身の血液が沈んでいくように感じ」るのだった。何をされても死ななかったはずの彼が、痛風の痛みでもんどりうつ。『光る風』の主人公も最後は闇に飲まれて沈んでしまったが、私にはそのイメージが強すぎるのか、こまわり君もついに沈んでゆくイメージに飲み込まれたかという感じである。

しかし、考えてみれば、我々全員が「がきデカ」的な黄金時代を持っていたかは甚だ怪しい。子ども時代だって現実には「全身の血液が沈んでいくよう」だったのではないか。西原理恵子が「《いじめられている君へ》西原理恵子さん」(http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY201208040635.html)で言っているように、子どもの世界というのは、比喩でなく〈戦場〉そのもの──簡単に殺したり殺されたりしてしまうかもしれない不自由なそれ──なのであって、むしろお金を自分で稼ぐことによって自由を得られる大人の世界の方がまだましかもしれないのである。まあ、西原氏に限らず、物書き的な人はそういう風に思うのかもしれない。私も子ども時代の暗黒さより今の方がどうみてもましだと感じるからねえ。とにかく、人を選ぶことができる大人の世界の方が……。こまわり君の人生は、子ども時代の独創性?と強さを失ってゆく人生であり、だからこの漫画は共感もされ、かつ共感する読者もダメなのではなかろうかと思う。山上たつひこのことである、これはわざとやっているに違いない。