菅谷規矩雄氏の『死をめぐるトリロジイ』を読んでいたら、映画『Das Leben der Anderen』を思い出した。この映画は邦題が「善き人のためのソナタ」となっていた。ベルリンの壁崩壊以前の東ドイツの監視社会をえがいたもので、主人公ヴィースラーは国家保安省Stasiの忠実なエージェントである。シュタージのものすごさは、ゲシュタポやKGBをしのぐものだったという。Inoffizieller Mitarbeiter 非正規協力者(密告者)を含むと一説には190万もいたというから、驚きである。これでは、他人はすべて密告者と考えた方がよい。主演のウルリッヒ・ミューエも女優である妻に監視されていて、200頁を超えるファイルが残っているそうである。物語は、反国家分子と疑われる劇作家ドライマンとその恋人(女優)の私生活を徹底的に盗聴するヴィースラー大尉が、二人の性生活を含んだプライベートを記述し報告しているうちに、だんだんと妙な気になってきてしまう物語である。劇作家の部屋に置いてあったブレヒトを失敬、読んでいるうちになんだか感激、自殺に追い込まれている老劇作家の送った「善き人のためのソナタ」という曲をドライマンが弾くのを聴いているうちに涙が出てきてしまう。老劇作家曰く「レーニンはいってるぜ、ベートーベンの熱情ソナタを真に聴いてしまったものは善い人となり、革命は出来ないと。」それも真に受けたらしいヴィースラー。彼は、ついに政府高官と密通する劇作家の恋人をたしなめたり、西側に危険な記事を送るのを黙殺したり、最後には、国家反逆の証拠になるタイプライターを隠してあげたりする。
「シンドラーのリスト」といい「グッバイ・レーニン」(ちょっと違うか)といい、「99パーセントは酷いことしてましたが、少しはいいことやりました」的な映画が作られるということは、現実には、その99パーセントの罪深さの酷さが想像されるところだ。
確か以前、宮×真司が、この映画について語った時に、ヴィースラーの翻身がブレヒトやソナタからのロマン的「感染」によって起こっていることを重視し、そのロマン主義的な危険性と希望を言っていたような気がする。ようするに、世界観を変えてしまうような体験は、ファシズムにもヴィースラーのような翻身のきっかけにもなるというわけである。
私は、むしろ、翻身のきっかけになるものが、ブレヒトや「善き人のためのソナタ」とされているところをもっと突っ込んで考えたいところである。確かに、ドイツ社会の酷さにドイツ芸術を対比させる、ドイツにありがちなナルシズムとして片づけることも出来よう。ブレヒトやピアノソナタを生んだのもドイツかもしれないが、マルクスを生み出したのもドイツであり、ナチズムを生み出したのもドイツである。この映画の背後には、「我らはなぜこんなに問題物ばかり生み出してしまう(
翻って考えてみると……、我々の社会には、これほどの「事実を正確に記述する」エネルギーが存在しているであろうか。大学やいろいろなところで、私は、ビューロクラシーが本当に日本に存在しているか、疑問に思わざるを得ない出来事に日々ぶつかる。事実を隠しているのではなく、単純に、会議の内容を書記が書き留められなかったり、悪意の誤解ではなく、単なる理解不足だったり……、そんな出来事の集積ばかりである。「報告書」の類をみても、その幼稚な(文学的)曖昧さはとても隠蔽工作の意図があるとは思えないものが多すぎる。そしてそのなかを、本当に曖昧さを装った隠蔽を出来る非常に有能な人物達が泳ぎ回っている。
私は、特に戦時下の日本には、特別高等警察への密告者が相当いたと思っているけれども、上記の能力問題により、事情はもっとやっかいだと思っている。
日本で、ヴィースラーが盗聴をしていたら、反国家的発言がいろいろ聞こえてきたとしてもいつも「みんな言ってるし……」という付言があるので、どうしようもないのではなかろうか。その証拠に、戦争に負けた途端に、一億人のほとんどが擬装転向していただけであったことが判明したのである。ヴィースラーには翻身が必要なほどであったのに、この国民にはその必要さえない。確かにヴィースラーが社会主義をまじめに信仰する人であったのに対し、ヴィースラーの上司の興味は出世だった訳だから、どの国も、翻身やら転向が必要な人は僅かであると言うべきかもしれない。文学者や芸術家の戦争責任の議論をみるたびに、「みなさんは罪の意識があるから、仲間意識があるんですね。もっと酷い奴を批判することの方が大変だから、転向論に逃げているんだね」と思うことも屡々である。
菅谷氏の著作はいつも難解であるが、どうも本当に語りたいことは他にあり、心優しい?氏はそれを言えずに、死とか虚無とかを語りつづけたのではなかろうか、と思った。恐ろしいことである。