★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

1900年と……

2012-08-30 08:54:52 | 思想


上は、ゲープハルトの『スピノザ概説』の一部

例えば、6時間近くもかかるベルトリッチ監督の『1900年』は、地主制度と資本主義の関係とか、ファシズムと社会主義の関係とかが問題になっている割に、その具体はよくわからない。ながらく見直してないので良く思い出せないのだが……、私はドナルド・サザーランド演じるファシストを地主(デニーロ)が屋敷の管理人としてこき使っているうちはまだよかったが、悪行にキレてしまった地主が解雇したら、ファシストを野に放つことになってしまい余計酷いことになったように見えた。つまり、地主は確かに搾取している訳であり、小作人がコミュニスト化するのを抑圧していると同時に、ファシスト化するのも抑圧しているように見えるのである。この観点はもっと考えてみたいところである。しかし映画は、地主がファシストとともに抑圧者として葬られる意味について問うことになっている。戦後、ファシストをリンチする小作人達はパルチザンにより武器を取り上げられて新たな「主人」に従うことになる。だから人民裁判で「(生きながら)死んだことにされた」元地主のデニーロが「地主は死んでないぜ」と呟くのである。武器を取り上げられた子どもとともに残されたデニーロと小作人のリーダー格だった竹馬の友・ドバルディは、ひたすらとっくみあいというかじゃれ合いを続けるのであった……。階級関係の重荷が彼らから移動したとたんに、彼らは友だちに戻った。

この竹馬の友は、幼少の頃より、おちんちんを見せ合ったり、戦争から帰ってきたらふたりで抱き合ってキスしたり、売春に行っても三人でしたがったり、どうみてもゲイだったとしか思えぬ。それを抑圧することで、結局、地主と小作人の対立を生きることになってしまった訳であった。階級闘争にも抑圧があったが、こちらにもある意味抑圧があったのである。

……と思い出すまでもなく、この映画は、老人の性、糞尿趣味、変態殺人、家畜解体、動物虐待……などなどが描かれ、社会主義とファシズムの問題が軽く吹き飛ぶ内容である。ただ、たぶん監督としては、上のファシストは何故ファシストなのか、社会主義はなぜ暴力を伴うのか、地主の生きる力の無さは何か、といった問題を性や食の様態からから追求するつもり──たぶん比喩として追求するつもりではなくリアリズムとして──なのであろう。ファシストが猫を虐待したり男子に性的意地悪をした後殺すとか、すさまじい勢いだ。マルクスが商品の物神崇拝(フェティシズム)とかいうから……、みんなその気になって、いろんんなフェティシズムを描きたがる。

かくて、上のゲープハルト(豊川昇訳)も宗教について論じている最中に「呪物崇拝(フェチシズム)」とか言い出すのである。