★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

坊主にしても帽子を被ればいいとおもう

2013-02-02 11:32:12 | 思想


NHKのニュースにいきなり尼さんがでてきて、お泊まりデートしてしまいましたすみませんとか言ってるから、尾崎紅葉とかその他諸々の比丘尼色懺悔の話を思い出してしまったが、尼じゃなくて、AKB(秋葉原坊主)48の一人であった。

この前のセンター試験では、休み時間に××高校の男の子が、センター対策の本を持ちながら大島優子の話をしていた。というわけで、秋葉原坊主のみなさんは、青少年を拐かした罪、および海外から児童ポルノだと非難殺到の罪で、全員坊主にしたらいいと思う。もちろん、それを支えたファンも同様である。坊主で「ポニーテールと種種」とか種ールでいいと思う。

わたくしも、中学高校と坊主であったが、これは中学の時校則でそうなっていたので、めんどうになって高校まで坊主だったのである。中学の反動で、高校の入学式までにはやくもちゃちゃらした頭にしていた周囲をよそに、更にそり込みが入った坊主頭で入学式に臨んだ私は、「怖い人」という評判が1日だけたっていた。すぐにただの生臭坊主であることがばれたが。というわけで、坊主であることは、むしろ、破戒僧、ヤクザ、色懺悔、中学生の妄想などなど、殊勝な反省とは何の縁もないことであった。

そういえば、私の通った中学は酷い荒れようであって、……にもかかわらず校則は素晴らしく多いのだった。校則のテストまであり、そこでわたくしはトップをとった。加えて、「自問清掃」とかいうものまであって、まさに修行僧の学校であった。わたくしが自問していたのかはわからんが、確かに、いろいろ考えたのは確かである。学校というのは、社会と隔絶し閉じているのではない。社会の問題が部分的にではなく集約的な表現としてのみ現れる珍しい空間である。ある意味、空間が現象学的になっているといえるかもしれん。(と、これは間違い。すみません。)いずれにせよ、わたくしは、そこで、個人の行為は、集団の行為の直接的な表現として解すべきであることを学んだのである。苛めも体罰もそうである。確かに、それは西田的というか仏教的な何かであるとも言え、確かに自問清掃の成果かもしれない。

まったくしょうもない世の中であるが、我々が頑張った結果がこれであるからして……一億総懺悔して色っぽい話しよう!

附記)以上のような感想は、私が組織や下僕の脅迫に常に晒されている吾々の社会に対する内省であって、youtubeを観た人権感覚豊かな海外の方々がどう反応するかと考えれば、まったく絶望的な気分になる。柔道の一件といい、どうみても日本は「一流選手や少女を集団リンチするのが趣味の国」ということになる。