★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

バーチャル「リアリティ」

2015-02-06 02:23:16 | 文学
そういえば、テレビである心理学者が、イスラム国に参加しかねない若者について、「バーチャルの中の世界なので、暑さとか匂いとかが感じられない。だからつい行ってみたいと容易に思ってしまう」と言っていた。

全く逆である。白黒弁士付きの映画の時代ならともかく、暑さや匂いなどのリアリティというのは、液晶の中の計算された美に感じるのである。すぐれた小説のそれも同じである。つまらない日常にはリアリティはない。「現実」であってもリアリティはないのである。そんなことは昔から自明である。「現実」がリアリティ持つのは、びっくりすることや面白いことがあった時だけだ。「現実」と「虚構」をつい分けて考えるからこそ、前者を選択したと思い込むこともできるけれども、リアリティの快楽に負けて後者の方を選択し直す危険性もある。そんな危険性そのものが我々の《現実》である。「イスラム国」の流す映像が洗練され嘘くさくて危険というなら、「イスラム国」が残虐というイメージも、「現実」とは違うとさしたあたり想定すべきである。テロの連鎖とは、恐怖で「現実」が過剰に錯覚され続けてしまうことであろう。変なポンチ絵で日常的に人々に恐怖を与えることに長けている我が国と「イスラム国」とはやってることは基本的には同じであり、島崎藤村もトルストイも同じである。そして、それに過剰に反応してはならず、しかし逆にバーチャルに侵食されていない生の現実があるという想定も同じく危険だというのが、二十世紀の教訓ではなかったであろうか。

だから、たかがYouTubeの映像ごときで動揺する人は、やっぱりドストエフスキーでも読んで耐性をつけた方がよいのだ。鬱屈した青年はいつもおり、テロが起こっても平和がなくなったわけではないのである。逆に戦時下でも、むしろ平時より「平和」だと感じていた人が案外多かったことは、研究により分かってきたことであって……

交渉

2015-02-06 00:42:56 | 思想
実は、今回の人質事件が起こった時、政府は表向きは「テロには屈しない」と言いながら、裏で300億ぐらい払って、ついでにヨルダンにもそれ以上払ってなんとか事態を収拾するのではないかとわたくしは思っていた。だいたい、自称金持ちの日本である。そんなはした金ぐらい払ったところで、テロリストの味方になったとは誰も思わんじゃろ。どうも最近の「がんばっている人たちだけが金を得るべき」イデオロギーに影響されたか、払いたくないやつには絶対払わん、というブラック企業の社長もどきの感覚が働いているのか知らないが、別にいいじゃねえか、金ぐらい、とわたくしは思っていたのである。どうも、わたくしは自国の政府について認識が甘かった……

むろん、「イスラム国」に連中に「イスラム国と戦う人々を(人道)支援します、と言っても、本当は(兵器の)企業の売り込みに来てるだけだろ。ああそうですか、じゃあ、俺たちにも売り込んでみろよ」と、なんというか……、足下を見られたのである。もはや、金の意味が昔と違っていたのだ。



ある種のヤクザ映画とか犯罪映画だったら、身代金要求されたら、一度は「払ろうたる払ろうたる」と言って、本物或いは偽物を担いで行って事態を打開するもんである。「脅しには屈しない」と主人公が言いいつづけて何もせずにいたら、普通犯人は「まだ脅しが足りないか」と思って人質をなんとかしちゃいますよ……。この際、ドストエフスキー読んでテロリストに同情しろとは言わん。「イスラム国」がどんなに野蛮でも奴らが人間であることを思い出すべきである。鬼畜米英とか、ヤンキーは真剣に戦争やってないから弱いはずとか、人間を舐めきった態度を復活させてはならない。