そういえば、テレビである心理学者が、イスラム国に参加しかねない若者について、「バーチャルの中の世界なので、暑さとか匂いとかが感じられない。だからつい行ってみたいと容易に思ってしまう」と言っていた。
全く逆である。白黒弁士付きの映画の時代ならともかく、暑さや匂いなどのリアリティというのは、液晶の中の計算された美に感じるのである。すぐれた小説のそれも同じである。つまらない日常にはリアリティはない。「現実」であってもリアリティはないのである。そんなことは昔から自明である。「現実」がリアリティ持つのは、びっくりすることや面白いことがあった時だけだ。「現実」と「虚構」をつい分けて考えるからこそ、前者を選択したと思い込むこともできるけれども、リアリティの快楽に負けて後者の方を選択し直す危険性もある。そんな危険性そのものが我々の《現実》である。「イスラム国」の流す映像が洗練され嘘くさくて危険というなら、「イスラム国」が残虐というイメージも、「現実」とは違うとさしたあたり想定すべきである。テロの連鎖とは、恐怖で「現実」が過剰に錯覚され続けてしまうことであろう。変なポンチ絵で日常的に人々に恐怖を与えることに長けている我が国と「イスラム国」とはやってることは基本的には同じであり、島崎藤村もトルストイも同じである。そして、それに過剰に反応してはならず、しかし逆にバーチャルに侵食されていない生の現実があるという想定も同じく危険だというのが、二十世紀の教訓ではなかったであろうか。
だから、たかがYouTubeの映像ごときで動揺する人は、やっぱりドストエフスキーでも読んで耐性をつけた方がよいのだ。鬱屈した青年はいつもおり、テロが起こっても平和がなくなったわけではないのである。逆に戦時下でも、むしろ平時より「平和」だと感じていた人が案外多かったことは、研究により分かってきたことであって……
全く逆である。白黒弁士付きの映画の時代ならともかく、暑さや匂いなどのリアリティというのは、液晶の中の計算された美に感じるのである。すぐれた小説のそれも同じである。つまらない日常にはリアリティはない。「現実」であってもリアリティはないのである。そんなことは昔から自明である。「現実」がリアリティ持つのは、びっくりすることや面白いことがあった時だけだ。「現実」と「虚構」をつい分けて考えるからこそ、前者を選択したと思い込むこともできるけれども、リアリティの快楽に負けて後者の方を選択し直す危険性もある。そんな危険性そのものが我々の《現実》である。「イスラム国」の流す映像が洗練され嘘くさくて危険というなら、「イスラム国」が残虐というイメージも、「現実」とは違うとさしたあたり想定すべきである。テロの連鎖とは、恐怖で「現実」が過剰に錯覚され続けてしまうことであろう。変なポンチ絵で日常的に人々に恐怖を与えることに長けている我が国と「イスラム国」とはやってることは基本的には同じであり、島崎藤村もトルストイも同じである。そして、それに過剰に反応してはならず、しかし逆にバーチャルに侵食されていない生の現実があるという想定も同じく危険だというのが、二十世紀の教訓ではなかったであろうか。
だから、たかがYouTubeの映像ごときで動揺する人は、やっぱりドストエフスキーでも読んで耐性をつけた方がよいのだ。鬱屈した青年はいつもおり、テロが起こっても平和がなくなったわけではないのである。逆に戦時下でも、むしろ平時より「平和」だと感じていた人が案外多かったことは、研究により分かってきたことであって……