★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

粛々と逃げ出す

2015-04-15 23:05:23 | 文学
最近、「基地移転を粛々と行うとは上から目線甚だしい」、「じゃあ使いません」、「原発再稼働を粛々と……」、「おいっ」というような、笑いが止まらないような事態が展開されているらしい。まあ粛々という言葉が、ナルシスティックな恫喝であることは、だいぶ前からほぼ当たり前なのであるが、さすがに最近甚だしく使われるので、話題にのぼってしまったわけである。かなり前から、政治家の世界以外でも、誰かがこの言葉を使い始めたら「あ、こいつ終わったな」と判断できる指標みたいになっていたのではなかろうか。しかし、この言葉、昔はどのように使われていたのであろう。調べたことがないから分からない。


今日は、熱っぽくて寝ていたのであるが、体が粛々と動くのであった。

 ところが五十名の優良工員の方は一向に役にたゝなくて、隣家へ焼夷弾が落ちて火事になつてもボンヤリ眺めてゐるだけであり、その次からは、警戒警報で勢揃ひをし、空襲警報になると各自全財産を背負つて粛々と逃げだす。号令をかけて逃げだすのである。寄宿舎はガランドウだ。
 私らのところは焼野原のまんなかに三十軒ほど焼け残つてゐる。これがどうして焼け残つたかといふと、例の七八名の不良少年組の方が、猛火のまんなかに踏みとゞまつて消してくれたのだ。私らのところがやられた時は風のない日だから、命をまとに踏みとゞまる者があれば消すことができたのだが、前々の例で死ぬのが怖しいから消さずに逃げて綺麗に一望千里の焼野になつたので、私らの小地区だけ不良少年組が救つたのである。

――坂口安吾「模範少年に疑義あり」


私が、「粛々」で思い出すのは、上の「粛々と逃げ出す」連中とか、「坊ちゃん」で出てくる「粛粛」と行進する師範学校の連中だとかである。現在も、案外、こういう人々が地位を得たのでいばって居るだけなのであろうが、それは話がわかりやすすぎる。坂口安吾や坊っちゃんは、優等生に対するルサンチマンの為にやや人物像がゆがんでいるような気がする。