★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

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2015-04-25 23:09:47 | 映画


NHKで、赤ちゃんポストの番組をやってた。興味深い番組であった。「命をつなぐ」という言葉でまとめかかっている番組の構成はむろん問題である。問題の具体性がまるで消えてしまうからである。印象に残ったのは、行政やひどい父親とかに対する強烈な不信感、というより拒絶である。抽象的な「命」に話がスライドしてしまうのは、絶望が深すぎる場合の宗教的救済への期待に近いのではなかろうか。すくなとくも、NHKは話をそう解釈したいようにみえた。

そこで思いだしたのは、昔みた「揺れる評決」というアメリカのテレビ映画である。たしか、アンディ・ガルシアが出てた。中絶を許すか許さないかをめぐって、延々議論が続く話である。政治や司法の場でも人間の不幸は問題にされうるのだという当たり前のことが描かれていた。最後に、新人判事であるアンディ・ガルシアが、政治的駆け引きではなく、自分の信念に基づき、ある種の論理的な「妥協案」ならぬ「打開案」を作り出す。そのとき彼が主張したのが、現に生まれている子どもの幸福という視点である。現に不幸になっている子どもたちが多いという現実に向かって中絶問題は論じられなければならない。そしてそれは、宗教や自由という視点のみ(つまり憲法のレベルのみ)では問題にできず、現実的な「人間的感情」かつ「金銭的」な視点が必要だと、彼は主張しているようにみえた。これがクソ絆や命の大切さや、金を誰が出してるんだこのヤローなどの話にならないのは、憲法や宗教的当為が基盤になっているからである。

昔みた映画(記憶がかなり曖昧ではあるが……)と比べても、我々の社会は何段階も遅れているようにみえる。ドローンを官邸に落とそうとする人は別に特殊ではなく、我々は、絶望のあまりテロをしてしまう社会に住んでいる。周囲に対する拒絶はすべてテロである。しかし、むしろこれは周囲の責任を問わなければ、「問題」にならない。とはいえ、その路線は、どうせなれ合いケア、しまいにゃ仲間はずれに落ちてゆくであろう。昔のテロリストは、死んだ後敵から褒められる可能性を夢見ていたところがある。無限孤独に落ちるとは思っていなかったのである。すなわち、来島恒喜みたいなのを総理大臣が褒めるようにならねば、テロリストもいつまでもまともさを取り戻すことはできない。