★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

I've seen the Angel of Death.

2018-03-04 17:11:27 | 映画


「許されざる者」は言わずと知れた老イーストウッドの傑作群の始まりの映画である。むかし、ダーティハリーをみて、正義はこえええなあ、と思ったわたくでしあったが、演じてる側が一番それを感じていたのであった。

The William Munny Killings と言う原題だが賞金稼ぎの殺人映画である。

イギリス女王万歳のボブも多くを殺してきている。それをリンチする保安官も悪人は吊せばいい(実際かなりヤッテイル模様)と思っているが、売春婦への暴力は案外許してしまうサイコパス、主役のマニーは、列車ごと女子供を殺したこともあるアウトロー。娼婦の顔を切り刻んでしまうような荒くれ者たちはむろんあれである。

つまり全員許されざる者であるのだが、イーストウッド演じるマニーが、最後、保安官たちだけでなく売春宿の主人までも撃ち殺して、「おかしなことするやつは一族郎党皆ぶち殺すぜ」とか言って(そんな感じだったと思う)雨の中去っていけるのはなぜであろうか。殺人者に正義は執行できるのか?

まさにアメリカ的なテーマである。保安官が建てている自宅は雨漏りでひどい有様だが、これはたぶんアメリカ国家のメタファーである。保安官がボブをリンチするのは、アメリカをイギリスの側からけなすからである。

で、マニーの方は、保安官が体現するアメリカ的な暴力行使の内面的な核みたいなものである。

マニーは足をあらって農民になり――堅気になっていた。豚をこどもと追いかけ回していたわけである。しかし、もう一回賞金稼ぎをするかと友達を誘って旅に出てしまう。しかし、もう彼は元には戻らなくなっていたと思う。現場に着いたら、悪寒と悪夢でひっくり返っている。酒も飲めない。酒を飲むまえに頭がどうかなってしまいそうだからだ。 I've seen the Angel of Death. と彼は言う。もう彼はあちら側に逝ってしまいそうだったのだ。で、保安官にぶん殴られてのされてしまう彼である。

しかし、その彼が顔を切られた売春婦に看病されて復活したときには、いきなり若返ったようになっていた。そして友人が殺されて完全復活を遂げてしまう。で、最終場面に。

つまりこういうことである。一度娑婆にもどると殺人者に戻ることは不可能である。秩序を維持にするにせよ、自分の生活のためにせよ、暴力を振るうことをやめられないのは、やめたらそこに戻れなくなるからだ。保安官やボブは、そういう人たちである。まあ売春も同じようなものである。しかしマニーが違うのは、そこに本当に戻れてしまったことである。なぜかというと、 I've seen the Angel of Death.というほど病んでおり、死線を越えてしまったから――というか、現実感がたぶんおかしくなっているからである。彼にとっては、

「人はみんな罪人さ」

みたいな台詞に示されるように、すでにこの世はダンテの地獄編みたいなものであって、地獄に落ちることが確定ならば、もう目の前の悪を殺すしかない、みたいなことになるのである。彼が最後、超人的な殺人テクニックを発揮するのは、この世の者じゃないからだ。

日本が罪にまみれた大国――アメリカや中国を嘗めてはならないのは、こういうことがあるからだ。罪を重ねてきているからこそ、上のようなジャンプの可能性があるのである。ドストエフスキーの応用みたいなものであるが――罪と罰の問題が、科学ではなくある種の信仰によってのみ乗り越えられていくことを我々はくれぐれも嘗めてならんのである。

結論:女に優しいやつが勝つ